2025年04月29日

冨永延蔵、フクロウを飼う ー安政三(1856)年初夏の冨永日記よりー

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◯ 冨永延蔵、フクロウを飼う


冨永日記は、江戸時代後期につづられた冨永延蔵(とみなが えんぞう)による日記である。

怡土郡周船寺村の兼業農家の次男であった延蔵は、実名を「冨永盈種(とみなが みちたね)」という。

農業のかたわらで冨永家が営んでいたのは酒造と質屋で、その屋号を「加勢儀屋(かせぎや)」とし、村の東入り口にあった。

当時の周船寺村は、宿場として栄えた「今宿」につらなる唐津街道沿いにあって、なかば宿場町的な商家が多かった。

そのようななか、加勢儀屋の家長である延蔵の兄「只七」(実名は冨永信種)は、なにかと病弱。

このため、家業は延蔵の存在なくして成立しなかったようである。

体の丈夫な延蔵は、農業や家業の忙しい合間に、天気のことから身辺雑記、酒場客のうわさ話まで毎日欠かすことなく日記に書きとどめていた。

このうち後世に残ったものは、嘉永3(1850)年、嘉永6(1853)年、嘉永7(1854)年、安政3(1856)年、慶応2-3(1866-67)年合冊の約6ヵ年分である。 (一部欠損あり)

筆者延蔵は、安政3(1856)年分の前書きに次のように記している。



  夫此予が日記ハ

  日々の天気其外・家内の笑談珍事・世間の奇談妙説等の荒増を書記して

  後代に残すのミ 元来拙き身を以て 賢君の志に習ふハ

  頗(すこぶる)身を忘れ 恥の上塗に等しといへ共

  十二才の若冠より記し来れる日記 今更絶さんも無下に本意なしと

  人の誹謗も打忘れ 日々に相記して自楽の為 且ハ後営にもなる事もヤと

  彼是を按じつつ 戯作へ文を顕すのミ

  (後略)




今から169年前の安政3(1856)年は、黒船来航の年である。

同年7月、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航して開国を迫ったことで、激動の幕末時代がはじまった。

この直前の初夏(4月)、農家兼商家の一青年である筆者の周囲ではどんな出来事があったのか。

同日記のなかから一部を抜粋して紹介したい。


 ・ 冨永日記 <安政三年初夏(4月)>
 ・ 今回のまとめのようなもの


(周船寺駅 他 2025年4月撮影)




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冨永日記 <安政三年初夏(4月)>


朔日  曇り天気 


今朝、荒衆子(下男)の源七・新作には、酒倉庫等々の屋根の草取りをさせる。

それに小便囲い瓶の上の竹瓦のふき替えなども任せた。


  〆

兄の信種は頭痛がひどく、また発熱もあって床に伏せる。

強い痛みで苦しむ様子のため、家中で心配する。

申の刻(16時ごろ)には牧野李山様(医師)の訪問診療を受けるに、格別の大病とは申されず、「疝癪(せんしゃく)」と告げられる。

 ※疝癪は、胸・腹・腰などが急にさしこんで痛む病気の総称

兄がこのような状態のため、私も農仕事に出ることはできない。

くわえて、月初のことである。

質の置き受けの繁忙に、私もてんやわんやであった。

流行の眼病が再発した親父の方は、いまだ平癒せず、これまた困った次第である。





三日  大に天気よろしく 


終日、神崎新蔵の元から仕入れた60目巻の素麺は、1駄620把であった。

  〆

今日は、若年・中年そのほか10人ばかりが柱島・机島等の磯見を楽しんできたようだ。

私もこの誘いを受けていたものの、兄は病気だし、親父も眼病を悪くしている。

店の仕事をする者もいないので、私は辛抱して残りとどまる。

すこぶる残念の次第なり。


  〆

今夕、当村(周船寺村)役場に乞食の者が塵戸(戸板)に乗って飯氏村より送られてきた。

当郡(怡土郡)三坂村から村継(むらつぎ)で送り出されていた者で、筑後国久留米小頭町三丁目の美濃屋勝平、という。

 ※村継は、継送りともいい、急病の旅人を村から村に継ぎわたして国元まで搬送すること

これを受け取って次の今宿村に手配をかけたのが、亥の下刻、子の刻(午前0時)になろうかという頃合いである。

けれども、この病人が亡くなってしまい、道の途中で引き返してきた。

私は寝入りにして夢心地であったところ、この度の指示・願書等を求められることになる。

緊急のことのため、庄屋・組頭・頭取・年番が集まり、私も加わって注進状・口上書を書き、私が帰宅したのは寅の刻(午前4時)を回っていた。

村役人は総勢で大庄屋の元に出役し、その後に役所出等もあって大繁多である。

また、遺体の番人も置かねばならず、村中もたいへんな騒動になった。

私の心配は他のことに比較しても10倍である。

乞食ひとりのこととはいえ、人命に関わることは一大事になる。

この件について記すべきことは山のごとしである。

しかし、親父は眼病、兄は疝癪で伏せて平癒していない時分、公事ゆえに私が出向かないわけにもいかない。

かといって、私一身をもって八方に心遣いはなかなかできるものではない。

このような繁多のさなかにあって委細を記すこともかなわず、大略のみを書き記した次第である。





八日  朝雨 巳の下刻より天気よろしく成


今朝より私の右眼が悪く難渋するところ、潤の三木峻庵様(医師)に来診してもらった。

流行眼といわれる。

重症ではないといわれ、終日うちふせて薬用処置をした。

母も流行眼で辛そうである。

そのほか親父や岩蔵らも眼病を患っており、さても困り入った次第である。





九日  天気よろしく


今日、六尺(下男)の六七と荒衆子の新作・源七の3人を井原へ遣わした。

文人殿元家に囲み置いていた合竹を中干しさせるためである。

その帰りに又吉殿に世話してもらっている枯柱を回収してきてもらう。


  〆

今日、私の眼病もおおかた快気したので喜ぶ。

もっとも全快には至ってないので十分に用心したい。

最近は家中で病人が多く、薬煎じにあれこれ騒々しくしている。


休五郎(父)

 先の流行目を患い、だいたい快復していたところ、水帳調子して再発

 今度は上眼となり、潤の三木峻庵(医師)の薬用に頼る


只 七(兄)

 傷寒の症状にて当月朔日(4月1日)より病つき

 はなはだ大ごとにしていたものの、薬用処置のおかげで早くも快復した

 しかし、全快とはならず今も起きたり伏せたりである

 女原(みょうばる)の牧野氏(医師)の薬用を受けている


延 蔵(私)

 昨日8日の朝より流行目を患う

 今朝に至っては大いに回復するも、用心のため潤(三木峻庵)の薬用はつづける


老 母

 常々眼気悪くこの度の流行目につき、はなはだ難渋していた

 もっとも日に日に快方に向かっている

 これまた潤(三木峻庵)の薬用に頼っている


おいわ

 虫塩梅にてぜんしやう激しく、くわえて目も悪くホヲベンタ腫れる

 これまた潤(三木峻庵)の薬用に頼っている

 もっとも次第に快方に向かっているので安心ではある

  〆

以上、5人の病人にてさてもさても困り入る。

しかし、全快にいたらんこと目前であるので、そこまで悲嘆しているわけではない。





十四日  曇天


今朝未明より起床し、私と糀屋甚吉両人で連れ立って肥前国上松浦郡新公領七山内滝川村に向かった。

同村内に鎮座する滝観世音に、心願成就のお礼参りが目的である。

深江より淀川村に至り、真名子峠を登り、浮岳の東南をとおると、山道の険阻㟴々の難所なることがたし。

滝川より川沿いを下り、浜崎に出て諏訪大明神に参詣し、今年の蛇難退除の誓願をこめる。

そこから2里の松原を通過して二軒茶屋に着くと、偶然にも休憩中の今宿上町利七に遭った。

彼も唐津の日限り地蔵菩薩に参詣するというので、これ幸いと、ここからは3人連れで水島渡しをわたり、唐津城下に至る。

日が西山に沈んだので、明朝の参詣しようと外町大石町大和屋三ヱ門方に一宿。

今日の行程は山道11里なれども、知った道に比べれば14-15里にも感じるほどであった。

言語大草臥(大くたびれ)いたしはべりぬ。





十五日  朝曇天 巳の下刻より大いに天気よろしく


今朝、私・甚吉・今宿利七の3人は、名物の与市鬢付などを買い求め、日限り地蔵尊に参詣した。

城下を出発したのは、早四ツ時(午前10時)なり。

昨日のくたびれのため、今朝はずいぶん寝てしまい、支度がこのように遅くなってしまった次第である。

これより水島渡しをわたって2里の松原を過ぎ、浜崎にてまた諏訪大明神に参詣して御砂を受ける。

それから渕上村を経由し、鹿家・吉井・大入・三並(佐波)・深江・田中・松末・浜久保(浜窪)・真木(牧)・赤坂・筒井原・前原・閏(潤)・池田川・高田等々を通行し、暮れに及んで周船寺に到着。

今日の行程はおおよそ9里半。

今日と昨日の行程にて、はなはだくたびれ申候。





廿日  朝曇天 時々しぐれ 未の下刻(午後3時)より雨降りくる


最近、飯氏村の岡伊八方に怪異あり。

姿形は見えずといえども、夜陰になると、家内に大きな石を投げ回るモノがあるという。

その石というのも、狐狸の手に合うような石ではなく、大石である。

それで村内の若者たちが毎夜詰め方をして、その正体を突き止めようと様子を窺っていたが、一向に姿をあらわさなかった。

いなかる変化(へんげ)のなせる技か、いかに大勢で番をしようとも、石だけは相変わらず投げこまれる。

しかし、その姿形は見えないのである。

いかにも奇異の現象であって、まるで宗像郡本木村の化け物のようであると話題になった。

まことに恐ろしいことである。





丗日  天気ようやくよろしく相成り候


火盗退除のため、愛宕大権現に信心すること、幼少より今に至るまで変わらない。

今春よりひと月越しに、私たち兄弟は交代で月参りをしている。

当月は兄が参詣する順番である。

ご祭日の24日に福岡行きにもかかわらず参っていなかったようで、今日で4月も終わりである。

兄は、巳の刻(午前10時)より支度をし、参詣に出ていった。


  〆

一昨日、染井半七殿方より梟(ふくろう)の子をもらってきた。

昼夜これを眺めて楽しむに、至極愛らしいものにて、寵愛にならぶものなし。

いまだ子梟のことゆえ、食べ物も田螺(たにし)やミミズなどをもっぱら与えている。

至極ゆうゆうたる気取り(様子)でいる子梟を見ていると、かわいくてしかたない。





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今回のまとめのようなもの


安政3(1856)年4月末、冨永家ではフクロウの子を家族に迎え入れた。

延蔵は、「昼夜是を見て楽むに、至極愛らしき物にて、寵愛双ぶ者なし」とつづり、その溺愛ぶりが伝わってくる。

一般的にフクロウは「空飛ぶネコ」といわれる。

それは、名前を呼んでも知らんぷりを決めこんだり、ペタペタなで回されるのを嫌がったりするフクロウの性格に由来するそうで、ペットとしてのフクロウはまさに「眺めて楽しむ動物」らしい。

猛禽類であるフクロウは、ネズミのほかヒヨコなどの雛鳥を常食とする。

延蔵は子フクロウに、タニシやミミズといった、身近で採取可能なエサを与えていた。

この子フクロウについて、翌月(5月)の日記にも書かれている。

残念ながら、わずか10日足らずで病死してしまったようである。



四日  天気よろしく


頃日染井より貰ひ来たりし梟、健かに成長し甚愛らしき故、

家内の寵愛及ぶ者なく、梟の洪福(幸福)成べし




七日  曇天 七ツ下りよりポチポチと雨降出し申候 北風也


昨六日夕、頃日秘蔵の梟、昨朝より病気付し故、

韮ハ勿論キナキナ丸等呑しめ薬用仕り候へ共、一円其験なく戌の刻に死去仕候、

誠ニ残り多き事共にて、鳥類とハ申ながら別れを惜まぬハなく、

家内暫時質素となりぬ




上記内容のほか、これまで拙ブログで紹介した冨永日記は下記のとおりである。



  ・幕末時代の公開処刑 ー近世の周船寺「冨永日記」よりー

  ・幕末時代のある商家の7月 ー近世の周船寺「冨永日記」よりー

  ・幕末時代のある商家の正月 ー近世の周船寺「冨永日記」よりー

  ・近世糸島のできごと ー安政3年の郷土ー

  ・近世糸島のできごと ー弘化2年の郷土ー

  ・近世糸島の感染症 ー痘瘡を中心にー

  ・近世糸島のできごと ー郷土と心温まる話ー

  ・近世糸島のできごと ー郷土と珍事ー

  ・近世糸島のできごと ー事件と藩領ー

  ・近世糸島のできごと ー事件と内済ー

  ・近世糸島のできごと ー臼杵氏子孫の来訪と原田家の法事ー

  ・近世糸島のできごと ー幕末の郷土と事件ー

  ・近世糸島のできごと ー昔の糸島の男女事情を垣間見るー




参考:『安政三年 冨永日記』由比章祐 解読(未刊本1984年)
   「今宿亀井塾と加勢儀屋」由比章祐 著(『誌季 能古博物館だより 第22号』1994年)
   『怡土志摩地理全誌1 怡土編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)

posted by 由比 貴資 at 20:55| Comment(0) | 幕末の周船寺冨永日記

2025年04月12日

王丸の王丸氏のこと【改訂版】 Part.1 ー鎌倉〜南北朝時代の王丸氏伝家の中世文書を読むー

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◯ 王丸の王丸氏のこと【改訂版】 Part.1


王丸氏は、現在の糸島市の東南端にあたる「王丸(おうまる)」を苗字発祥の地とする、中世の地侍である。



糸島市と福岡市の境界に裾を広げる高祖山。

大蔵姓原田氏が中世をつうじて居城(高祖城)を築いた山である。

この山の西側を縦断する県道56号線を南に進行すると、日向峠入り口前で末永交差点に差しかかる。

ここをそのまま佐賀(三瀬)方面に向かって、緩やかな傾斜道を500メートルほど直進したところが「王丸」である。

県道の東側は王丸山を後背に住宅が並び、県道の西側に細長く連なるのは、棚田と段々畑。

地図で俯瞰すると、その区域のほとんどが山地(王丸山)であることがわかる。



王丸という地名の起源をたどれば、今から800年以上前の荘園時代である。

当時の糸島地方には、怡土郡と志摩郡をまたぐ皇室領の大荘園「怡土荘(いとのしょう)」が広がっていた。

鎌倉時代初期以降、京都の仁和寺宮庁が「預所」となり、同寺から派遣された供奉僧たちが怡土荘を管理していたようである。

荘園内の徴税単位を一般的に「名(みょう)」といい、怡土荘の東南端に「王丸名(おうまるみょう)」はあった。

名ごとに地主的な存在となる「名主(みょうしゅ)」がその経営を一任し、荘園領主(預所)への年貢上納の義務を担っていた。

王丸名の名主職(みょうしゅしき)は、もとは源姓の「王丸氏」が継承した。



王丸氏は、佐賀県から長崎県に続く松浦沿岸の海賊衆「松浦党」出身の中村氏一族の流れだと伝わる。

鎌倉時代より高祖山西麓の大門辺りの名主だった中村氏は、幕府に仕える御家人として蒙古襲来時には参戦し、その命令に応じて異国警固番役や防塁の補修などをつとめた一族である。

王丸氏が「王丸」を称するのは南北朝期以降のようで、室町時代からは在地武士としての王丸氏が頭角をあらわす。

それを証明するのが当時の大名家より発給された軍忠状など文書の数々である。

これらの文書は、「徳雄(盛見)」にはじまり、「持世」「義興」「義隆」「義長」「輝弘」と、中国地方の最大勢力であった大内家歴代当主の花押(サイン)が入ったものになる。

当時の名主(地侍)クラスで、大内氏規模の当主直筆による文書をこれだけ有した存在は、かなり希少といえるのではないだろうか。

そこで今回からは、これらの文書を編年で掲載しながら、全4回(Part.1〜Part.4)に分けて中世王丸氏の事績をたどりたい。

第1回目(Part.1)である本記事の見出しは次のとおりである。


 ・ 王丸の王丸氏と王丸文書のこと
 ・ 鎌倉時代の王丸氏 〜王丸名主源安
 ・ 南北朝時代の王丸氏 〜王丸氏の名乗りはじめ
 ・ 今回のまとめ 〜鎌倉〜南北朝期の王丸文書より


(王丸の風景/白木神社/王丸氏発祥之地碑 2025年3月撮影)




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posted by 由比 貴資 at 17:30| Comment(0) | 糸島中世史

2025年02月24日

糸島伝説「荻浦の長蔵」 ー義賊伝説と実際の記録と当時の荻浦村のことー

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◯ 糸島伝説「荻浦の長蔵」


糸島伝説に「荻浦の長蔵(おぎのうら の ちょうぞう)」という話がある。

かつて志摩郡荻浦村に生まれた長蔵は、とにかく足が速いことで有名だった。

長蔵はあることをきっかけに「義賊」に身をやつす。

駿足で身のこなしも軽快な長蔵は、たくみに富裕層の家々から金品を奪い、それらを貧しい人々に配った。

そんな怪盗長蔵にもお縄を頂戴するときがくる。



この義賊伝説には、原本ともいうべき古文書があった。

これによると、荻浦村出身の長蔵は縄抜けの達人といい、どんなに捕縛されても巧妙に脱出してしまうという。

しかし、江戸時代中期の安永元(1772)年暮れ、長蔵は肥後国(熊本県)でお縄にかかる。



伝説の舞台は、旧荻浦村の地で、現在は新興住宅地として開発されて久しい「美咲が丘」をふくむ一帯である。

そこで今回は、長蔵伝説を起点に、そのもとになったと考えられる古文書の内容にくわえ、当時の荻浦について紹介したい。

本記事の見出しは次のとおりである。


 ・ 糸島伝説「荻浦の長蔵」
 ・ 伝説のもとになった古文書より 〜宮崎文書「衣斐静山覚書」
 ・ 長蔵伝説の時代と福岡領志摩郡荻浦村のこと


(荻浦・美咲が丘/大浦・南風台 他 2025年2月撮影)




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糸島伝説「荻浦の長蔵」


むかし、荻浦村(おぎのうらむら)に「長蔵」という若者がいた。

長蔵は、運動神経抜群で腕っ節が強く、とにかく足が速いことで有名であった。

その駿足を伝えるエピソードには、次のようなものがある。



ある日のこと。

朝から長蔵の家の者たちは慌てていた。

遠方からの急な来客があるというのに、もてなし用の茶菓子がなかったからである。



 「それはイカン!

  客人にシケた菓子ば出すくらいなら、一家全滅した方がマシたい!

  オレが今からひとっ走り買いに行ってこう」



長蔵はそういって外に飛び出すと、一刻もしないうちに涼しい顔で帰ってくる。

その手に「松原おこし」を提げて。

松原おこしといえば、朝鮮出陣時の太閣秀吉に献上されたという、肥前国(佐賀県)虹ノ松原(にじのまつばら)を代表する銘菓である。

荻浦から虹ノ松原まで、片道5里(約20km)もあるというのに。



また、ある日のこと。

朝から村の若い男たちは慌てていた。

午後の村の集まりに女子も参加するというのに、茶うけの菓子が何もなかったからである。



 「それはイカン!

  村の女子につまらん菓子ば出すくらいなら、荻浦の男は全員腹切りした方がマシたい!

  オレが今からひとっ走り買いに行ってこう」



長蔵はそういって街道を西に走り出すと、あっという間にさわやかな顔で戻ってくる。

その手に「松露饅頭(しょうろまんじゅう)」を持って。

松露饅頭といえば、ときの唐津藩主に献上されたという、肥前国(佐賀県)唐津(からつ)を代表する銘菓である。

荻浦から唐津まで、片道6里(約24km)もあるというのに。



長蔵の身の軽快さときたら、まるで夏のツバメのようであった。

農作業時には、あぜ塗りの道を足跡ひとつ付けずに移動していたともいわれる。

そんな長蔵に人生の一大転機がおとずれる。



ある晩のこと。

村の作兵衛さん家の前をとおりかかった長蔵は、ただならぬ怒声をきいた。

思わず立ちどまり、玄関先から家のなかの様子をうかがう。

そこで長蔵が目にしたものは、責め立てる高利貸しの前で、伏して謝罪を繰り返す作兵衛さんの姿であった。

無慈悲な高利貸しは、返す金がないなら家財をよこせと、作兵衛さんを足蹴(あしげ)にする。

作兵衛さんの家には数年前から病気で寝たきりの両親がいる。

正義感が強く、一本気な性格の長蔵はいてもたってもいられなかった。

気づけば、高利貸しの懐に回転しながら潜り込み、高利貸しを思いっきり戸外に投げ飛ばしていたのである。

この瞬間、長蔵は覚醒してしまった。



 「このままじゃイカン・・・

  貧しいモンが追いつめられても、ますます貧しくなるばかりたい!

  オレがなんとかせんならん」



数日後、作兵衛さん方の玄関先には、大金の入った状袋が置かれていた。

この大金は、長蔵がこの高利貸しの家から盗んで置いたものである。

それからというもの、長蔵は、連日のように高利貸しや富豪の家に忍び入って金品を盗んだ。

そして、それを貧しい人々の家に置き、黙って去ってゆく。

長蔵は、貧困者の救済をたて前に盗みをはたらく「義賊」になったのである。



なにしろ身は軽く、足が速い長蔵である。

誰に気づかれることもなく金蔵を破り、ごっそり金目のものだけを奪い、足跡もつけず消える。

同様の盗難事件が各地で多発するようになると、荻浦の長蔵は、その名前を広く世間に知られるようになった。

それは、長蔵に助けられた貧しい人々の数も増えていったことを意味する。



そんな完全無欠の怪盗長蔵もついにお縄にかかる。

筑後柳河の城下町で、いつものように富家に侵入したところ、待ち伏せていた役人たちに捕らえられてしまったのである。

荻浦村出身の長蔵は、唐丸駕籠に入れられて福岡まで護送されることになった。

このとき、正義の罪人である長蔵の姿をひと目見ようと、街道沿いには人垣ができたらしい。

柳河の役人たちに担がれた駕籠は前面莚(むしろ)で覆われているので、外から長蔵の表情はわからない。

それにもかかわらず、その姿に向かって手を合わせる人も少なくなかったと伝えている。



また、沿道から長蔵を見送ったなかには、その晩の夢に長蔵があらわれた人もいたという。

夢のなかで、長蔵は隠し埋めた金のありかを教えてくれたそうである。

大喜びのその人は、夢の長蔵を信じてその場所をひと月もかけて掘り返してみた。

しかし、出てきたのは石ころばかりだったというオチである。




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伝説のもとになった古文書より 〜宮崎文書「衣斐静山覚書」


糸島伝説「荻浦の長蔵(おぎのうら の ちょうぞう)」は、どうやら実在の人物だったらしい。

そのもとになったと考えられる古文書がある。

宮崎文書(糸島市井原)の「衣斐静山覚書」に、おおよそ次のような記述がある。



安永元(1772)年12月。

肥後国で稀代の大盗人が捕縛され、福岡藩に護送されることになった。

この罪人の名を「長蔵」といい、福岡領志摩郡荻浦村の出身である。

長蔵は、縄抜けの名人として悪名高く、どんなに後ろ手を固く縛り上げたところで抜け出てしまうという。

今度こそは捕り逃すまいと、福岡藩の役人は見張り番二人をつけて長蔵を橋口の牢に入れた。

また同時期、福岡領内でも肥後国出身の盗賊が捕われており、翌日は長蔵と入れ替えに肥後藩の役人に引きわたす予定だった。

このため、肥後の盗賊と長蔵は、ひと晩だけ同じ牢に入れられることに。



明けて翌朝、牢内は空っぽである。

晩のうちに縄抜けに成功した長蔵は、肥後の盗賊とともに姿を消していた。

福岡藩はすぐに各所に手配して捜索をかけるも、二人はゆくえ知れずのままであった。

その後、長蔵が捕縛された記録はない。



それにしても、長蔵の盗んだ大量の金品はどこに。

どうやら荻浦村近辺に隠してあるらしい。

そんなうわさ話がにわかに広まって、郷土ではちょっとした発掘ブームになったとも。




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長蔵伝説の時代と福岡領志摩郡荻浦村のこと


長蔵伝説の舞台は、今から約250年前の江戸時代中期の志摩郡荻浦村である。

荻浦(おぎのうら)といえば、その南側丘陵地のほぼ全域が宅地開発され、新たに「美咲が丘」と呼ばれるようになって久しい。

地名「荻浦」の初見史料は、戦国時代半ばの永正9(1512)年の「重冨正秀申状案」(由比文書)であろうか。

往昔、加布里側からの深い入湾(糸島水道)の南岸に面した地(浦)であることから、その地名がついたと思われる。



豊臣秀吉の全国統一後、小早川隆景が筑前国(博多以外の15郡)領主となる。

天正16(1588)年には、筑前国内でも史上初の全国規模となる検地(太閤検地)が実施され、各村の田畠の面積が測量された。

これによって田畠の所有者(一地一作人)と米・大豆生産高が明確に定められている。

この時点の志摩郡荻浦村は、干拓前で平地に乏しく、わずか12町(田地8町・畠地4町)に石高107石の小村であった。

江戸時代中期の元禄年間(1688-1704年)ごろになると、田畠25町に石高302石と倍以上になっている。(『元禄元年御床触郡帳』)

さらに元禄13(1700)年には、対岸の大石・辺田につづき、前原村下から荻浦村の前面に広がっていた潟地が干拓された。(元禄開)

これで約55町もの新田が完成し、このうち東側半分25町の耕作が前原村の負担、残り30町が荻浦村の負担となった。

以後、人口・戸数の少ない荻浦村は、段階的に入植者(移民)を入れて耕作従事者を確保しながら、村政運営の安定化をはかっている。



さて、実際の記録による長蔵伝説は、江戸時代中期の安永元(1772)年の暮れの話である。

当時は10代徳川家治の時代で、明和9年11月には改元し、安永元年になった。

改元の理由は、同年2月より「明和の大火」(江戸三大火)などの災害が頻発して「明和9年=迷惑年(めいわくねん)」と揶揄されるほどだったからといわれている。

宝暦・明和年間(1751-1772年)ごろの福岡領志摩郡は、数年おきの不作が影響し、福岡藩の財政も困窮していたようである。

郡内の村々も借財ばかりの青色吐息状態で、この現状を打開するため、郡奉行の下役である郡代・免奉行を廃止することで郡方役人の人件費を節減。

代わりに大庄屋・庄屋の給米(役手当)を上げ、郡奉行が直接的に彼ら村役人を督励する体制をもって郡内各村の再建をはかった。(『筑前西郡史』)



また、同年12月の荻浦村のできごとに「弁坂峠開通」の記録がある。

弁坂峠は、荻浦村南の丘陵上を、反対側の大浦村と南北につなぐ峠道のことをいう。

現在「南風台」と呼ばれる同丘陵の南側は、かつての大浦村の地で、同じ福岡領志摩郡のうちであった。

大浦村の人々にとって、年貢納入時における年貢米の輸送は大きな負担を強いられていた。

というのも、大浦村の人々が唐津街道に出るには、藩境(福岡領〜中津領)にあたる多久川の土手沿いを西に大きく迂回しなければならなかったからである。

しかもこの荻浦村西側の藩境周辺には人家もなく、強盗追い剥ぎが多発する危険な場所でもあった。

そこで、大浦村庄屋の申し出を受けた郡奉行(津田源次郎)は、安永元(1772)年12月、郡夫280人を動員して弁坂峠の開通工事を実施。

これにより、大浦村分100間(約180m)と荻浦村分60間(約109m)の峠道が開かれ、大浦村から街道まで半里(約2km)の短縮が実現したようである。

この開通によってつぶれた両村の畠地については、その分の年貢を両村で負担することになった。(鎌田文書)




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弁坂峠の開通以前、大浦村の人々は多久川土手を西に沿って街道に出ていた




参考:『糸島伝説集』同編集委員会 編(糸島郡観光協会1973年)
   『前原町誌』牛原賢二 編(糸島郡前原町1941年)
   『筑前国續風土記』貝原篤信 著(名著出版1973年)
   『筑前国續風土記附録(下巻)』加藤一純・鷹取周成 著(名著出版1978年)
   『糸島郡誌』糸島郡教育会 編(名著出版1972年)
   『筑前西郡史』由比章祐 著(福岡地方史研究会1980年)
   『怡土志摩地理全誌2 志摩編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)




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浚渫工事中だろうか、多久川下流の現在の様子
posted by 由比 貴資 at 19:55| Comment(2) | 糸島伝説

2025年01月31日

糸島と地侍たち【改訂版】 ー中世荘園「怡土荘」とその村落に暮らす「名主」あらため「地侍」についてー

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◯ 糸島と地侍たち【改訂版】


糸島(いとしま)は、福岡県の最西端に位置する。

現在の糸島市と福岡市西区の北西部をふくむ、博多湾の西岸に面した地域である。

その北部(志摩地域)が玄界灘につき出した半島状の地形であることから、糸島半島とも呼ばれている。

南部(怡土・二丈地域)には佐賀県との県境にまたがる背振山系が東西に長くそびえ、その前面に糸島平野が広がる。

名所旧跡も多く、日本最大の玄武岩洞「芥屋の大門」(天然記念物)をはじめ、県の指定名勝である「白糸の滝」や「桜井二見ヶ浦(夫婦岩)」がよく知られるところである。



福岡都市圏にありながら、海と山に囲まれた豊かな自然が残る糸島は、その歴史も濃い。

今から約1700年前の弥生時代後期、「倭(わ)」と呼ばれた日本列島には邪馬台国など30もの国が成立し、そのなかに「伊都国(いとこく)」があった。

中国の歴史書『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の記述によると、伊都国には代々の王が存在したという。

それを示す遺跡は、糸島最古の王墓「三雲南小路遺跡」や国内最大の銅鏡が出土した「平原遺跡」など、現在の糸島市三雲を中心とした糸島平野周辺に集中している。

いずれも、多数の豪華絢爛な副葬品が出土しており、全国的に脚光をあびた遺跡である。



今回のテーマは、そのような糸島の「地侍(じざむらい)」についてである。

地侍は、各地の村落社会に生きた侍(武士)のことで、おもに室町〜戦国時代の史料上に登場する。

彼らの起源をたどると、平安時代中期から中世にかけて進展した「荘園村落」に基盤をもつ土地の有力者であった例が少なくない。



糸島平野の一円に、怡土郡と志摩郡をまたぐ大荘園「怡土荘(いとのしょう)」が出現するのは、平安時代後期。

当初の怡土荘は、鳥羽天皇中宮であった待賢門院(藤原璋子)御願の「仁和寺法金剛院」領となる皇室領の荘園であった。

鎌倉時代初期以降になると、荘内の現地管理をおこなう預所(荘官)として、仁和寺の供奉僧が派遣されていたようである。

荘園の徴税単位を「名(みょう)」と呼び、怡土荘内の各名には多くの名主(みょうしゅ)がいた。

彼らは、直接的な農場経営にたずさわり、村落(名内)の農民たちを統率。

農民たちから年貢・公事等を徴収し、それらを荘園領主(預所)に納入するなど、重層的荘園支配の末端を担っていた。

名主は、その後の地侍のルーツである。



日本の中世史といえば、話題の中心は中央勢力や大名の動向である。

たとえば、当時の農村で暮らしを営む人々の姿はイメージしにくいのではないだろうか。

中世村落の構成員であった地侍は、多少の土地を有し、農業経営や狩猟・漁労・採集などの生産活動を主体にしながら、ときに武装して戦に出た。

いわば、半農半士の存在であった。

彼らの多くは、前述のとおり、鎌倉時代に有力農民(名主)として生きてきた者たちである。



鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に突入すると、彼らの武士的性格が鮮明になる。

全国的な争乱のなか、彼らはより強大な勢力をもつ大名や国衆(国人領主)と積極的に主従関係を結んだ。

そして、その催促に応じて軍役をはたすことで、代わりに先祖伝来の土地(所領)を保護してもらったのである。

しかし近世に入ると、地侍は武士の象徴である刀や弓矢などの武器を強制的に没収されてしまう。

豊臣秀吉による兵農分離政策である。

農民として土地に残るか、あるいは大名家臣となって土地を離れるか。

彼らは選択を迫られることになるが、その多くは庄屋(名主)などの村役人として土地にとどまり、農民として生きていくことになった。

本記事は、村落社会のはじまりから荘園出現までの流れを始点に、中世荘園「怡土荘」とそこに生きた名主にふれながら、地侍の系譜について概略的にまとめたものである。

目次は下記のとおりである。


 ・ 稲作と村のはじまりから荘園の出現まで
 ・ 糸島最大の荘園「怡土荘」のこと
 ・ 惣地頭大友氏に抵抗する怡土荘の名主たち
 ・ 自立する名主たちが地侍になる
 ・ 豊臣秀吉に地侍が消される


(糸島平野の田園風景 2025年1月撮影)




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posted by 由比 貴資 at 22:30| Comment(2) | 糸島中世史

2025年01月01日

年始のご挨拶

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posted by 由比 貴資 at 21:00| Comment(0) | その他