◯ 尻振り歌い踊る妻たち、これは狐憑きか、それとも…?
江戸時代後期から幕末にかけて、現在の福岡市西区周船寺に、ひとりの熱心な記録者がいた。
当時の筑前国怡土郡周船寺村にあった商家「加勢儀屋(かせぎや)」の次男、冨永延蔵(とみなが えんぞう)である。
冨永家は、酒造業と質屋を営む富商である一方、多数の小作地を所持する地主でもあった。
家督を継ぐべき兄が病弱のため、その重責は次男「延蔵」にのしかかっていた。
数人の下男(従業員)を指揮し、家業の運営と農業経営を切り盛りするかたわらで、彼は多忙の合間をぬって筆を走らせつづけた。
彼が克明に書き留めていた記録こそ、当時の農村社会の実像を今に伝える貴重な史料『冨永日記』である。
日記には、作物の播種や手入れといった農作業の記録のほか、村祭りや相撲といった娯楽、さらには刃傷沙汰や盗難、強盗への対応など、村周辺の出来事が鮮やかに描かれている。
嘉永3(1850)年5月。
その初日の日記には、農繁期に忙殺される延蔵の悲鳴のような独白が記されている。
此頃、農行仕事又極大繁多ニて、心躰大ニ労れ、苦敷事甚し
アラキツヤナ、アラキツヤナ、アラキツヤナ、アラキツヤナ
初夏の訪れとともに多忙をきわめ、「アラキツヤナ(ああ、しんどい)」と、ため息をつく延蔵。
しかし、そんな彼の疲れを吹き飛ばすかのように、村では平穏な日常を揺るがす事件が立てつづけに発生する。
まず日記の冒頭を飾るのは、村の女性たちが次々と乱心する怪異だ。
とつぜん陽気に小歌を歌い出し、寝床の上で尻振り踊りをはじめるという、滑稽ながらも不気味な流行病。
延蔵はこれを「古今未曾有」の出来事として驚き、狐の仕業か神仏の祟りかと疑って動揺する人々の姿を記録している。
このほか、夜道を往く魚商人を狙った物騒な強盗事件など、など。
本記事では、延蔵の筆致(表現・論理展開)をできるだけ尊重しつつ、その一部始終を現代語訳で紹介したい。
全体の構成は次のとおりである。
・ 狂い踊り歌う妻たち
・ 鯛商人を襲った強盗事件
・ 現場での暴行流血事件、憎むべきは……
・ 酒場での執拗な借金取り立てが招いた夫婦の悲劇
・ 今回のまとめ
(周船寺駅 他 2025年4月撮影)
狂い踊り歌う妻たち
初日 大ニ曇天気 又風一向吹ず
先月、私が英彦山参りで留守にしていた折の話である。
当地の佐良屋友七殿の妻が急に気分を悪くして横になっていたという。
無言のまま、ついに悶絶する事態となったため、家族は慌てて抱きかかえ、必死に声をかけて介抱した。
ようやく目を見開いた彼女は、弱々しい声で「アラ苦しや」とだけ漏らす。
この騒ぎを聞きつけ、近隣の人々も集まってきた。
医師を呼びに走る者、彼女の親類へ急報を伝える者など、現場はにわかに慌ただしくなる。
これは七ツ下り(16時頃)のことである。
ところが戌ノ刻(20時頃)になると、病人が急に小歌などを歌い出し、ひどく陽気な様子に転じた。
心配していた人々は拍子抜けし、普段は真面目な彼女がなぜ歌など歌うのかと、一同驚き呆れるばかり。
この狂態はその後もしばらく止まず、浄瑠璃や流行り歌を歌い上げるなど、昼夜を問わず大賑わいになったらしい。
夫の友七殿もただ当惑するばかりである。
最近では少し正気に戻る兆しもみえるが、時おり乱心しては様々な虚言を口にする。
今日(5月1日)に至るまでの14、15日間、このような状態がつづいているという。
これはまた別の話である。
去る4月27日の夜、提灯屋茂助の妻も前触れなく気分を害した。
彼女の場合は友七殿の妻のような経過をたどらず、ふさぎ込んでいたかと思うと、急に狂い出したらしい。
浄瑠璃や長歌を披露するにおよばず、あろうことか寝床の上に仁王立ちし、尻振り踊りをはじめたのである。
これを目にした者は、いかなる堅物であっても笑わずにはいられなかったという。
友七殿の妻といい、この提灯屋の妻といい、古今未曾有の病状であり、「不思議」という言葉だけでは言い尽くせない。
ある者が「これは狐の仕業ではないか」と左門夫という人物に尋ねた。
だが彼はこう答えた。
いやいや、狐ではあるまい
狐の仕業であれば、私が年に数度、豊前へ祈祷に赴く際に判別がつくはずだ
これらの病人に対して祈祷を頼まれても、一向に狐の気配はない
これはすべて水神や荒神の祟りである
今もなお、これらの病の本態は不明である。
この奇妙な流行病を恐れ、村中の女性たちは戦々恐々としている。
日頃は不信心な者までもが、朝夕に神仏へ手を合わせるようになった。
両家で起きたこの異様な病状に、人々はただ疑念と驚きを深めるばかりである。
鯛商人を襲った強盗事件
六日 天気宜
去る節句の前日、5月4日の夕刻のことである。
志摩郡西浦村の肴(魚)商人が、鯛(たい)一荷を担ぎ、夜を徹して姪浜を目指していた。
今宿を通りかかる頃にはすでに亥ノ刻(22時)を過ぎ、人家の多くは戸を固く閉ざし、灯火のもれる家も少ない。
鯛商人は剛毅な気性の持ち主であり、夜道にも臆することなく歩みを進める。
しかし、長垂山のもの寂しさはひとしおで、松を吹き抜ける風の音以外に物音ひとつしない。
心細い道中、薬水と生の松原の間にある「小浜」という場所に差しかかった時のことである。
鬱蒼と茂る樹木の間から、いきなり頬被り(顔隠し)をした大男3人が出てきた。
男たちは鯛商人の行く手を阻み、積んでいる鯛をすべて置いて去れ、とおどす。
鯛商人が抗おうとすれば、男たちは「さもなくば目に物見せん」と、古脇差をガタつかせて威嚇してくる。
これに肝を潰した鯛商人は、黙って身を引いたものの、3人は執拗に追いかけてきた。
時は子ノ下刻(深夜1時)を回る頃である。
鯛商人はあらん限りの声を上げて助けを求めたが、人通りの絶えた夜道に反応する者はいない。
ついに鯛商人は3人に捕らえられ、手取り足取りの暴行を加えられた。
なす術もなく、商人はその場に打ち倒されるしかない。
それから男たちは鯛10枚ほどを各々両手に下げ、何処ともなく闇のなかへ消え去った。
鯛商人はようやくの思いで起き上がったものの、ほとんど半死半生である。
生の松原の茶屋まで這うようにしてたどり着き、茶屋亭主を叩き起こして事の次第を訴えた。
驚いた亭主は家中の者たちを起こし、7、8人を現場へと急行させる。
そこには目籠が四方に散乱し、小ぶりの鯛が5枚ほど残されているだけ。
一同は手分けをして山中を捜索したが、ついに賊の行方を掴むことはできなかったという。
鯛商人の受けた不慮の災難は、ただちに使いを出して鯛商人の地元、西浦に伝えられた。
翌朝、同浦より役人ら10名ほどが出張ってくると、正式に役所に被害届けが出されている。
はたしてこの一件、いかなる落着になるだろうか。
現場での暴行流血事件、憎むべきは……
廿二日 朝の間天気 後雨降ル
先日、風呂屋(銭湯)にて唐人町の者が目撃したという大ゲンカの話を聞いた。
あまりに衝撃的で、興味深い内容であったため、ここに記す。
当月5日、志摩郡辺田村の新開普請場(干拓作業場)において、福岡谷町の「何エ門」という者と、福岡唐人町の「石屋某」との間で、舟の荷受けをめぐる諍いが生じた。
場所は辺田村にある酒屋の西隣であった。
当初は些細ないい争いであったが、次第に険悪な空気が漂いはじめる。
すると、唐人町の石屋が、背後にあった重さ40斤(約24kg)余り、長さ5尺(約1.5m)という巨大な鉄製のテコ棒をひっ掴んだのである。
そのまま石屋が大喝一声、テコ棒を振り下ろすと、谷町の者の頭を直撃した。
谷町の者はひとたまりもなく仰向けに倒れたが、石屋はその上にのし掛かり、さらに追撃を加えようとする狂乱ぶり。
周囲の者たちがようやくの思いで石屋を抑え込み、怪我人の容態を確認したところ、その惨状は目も当てられぬものであった。
頭部の左側には、5、6寸(約15〜18cm)にわたって鉄棒の痕が深く刻まれ、頭皮が毛髪ごと頭蓋の内側へ打ち込まれている。
周囲の人々は驚愕し、すぐに医者を呼べと大騒動になった。
負傷者は屈強な男であったが、それでも短時間の間に3度も意識を失うという瀕死の状態に陥った。
本来であれば、ただちに医者を呼び、早急に怪我人の故郷へ急報すべき事態である。
ところが、現場を差配する元方(現場責任者)は、あろうことか一向に音沙汰を寄越さず、4、5日もの間、放置を決め込んだ。
この不誠実な対応に、怪我人の宿元である谷町の家族はもちろん、町内の人々も大激怒。
憎きは元方の対応よ
即刻注進すべきを、数日も放置するとは奇怪千万である
もし死んでいたらどうするつもりだったのか
死骸だけを送り届けるつもりだったのか
どのように考えても道理が通らぬ
と、町中で申し合わせるに至った。
人々の怒りの矛先は、ケンカの当事者よりも、むしろ不義理を働いた元方に向けられたのである。
谷町の若者20、30人が元方のもとへ押し寄せ、「この不始末、どう落とし前をつけるのか」と激しくつめ寄った。
罵声を浴びせられた元方の面々は、一言も返せず、その様子に谷町の者たちはただ閉口するばかりであったという。
これほどの大怪我は古今未曾有のこと。
並の人間であれば即死していてもおかしくないところを、本人の頑健さゆえに、かろうじて命を繋いでいる状態であった。
その後、命に別状はないとの見立てが立ち、あんだ(担架)に乗せられて宿元へ戻り、養生に励むこととなった。
現在は御殿医(お抱え医師)による入念な治療が行われているが、その治療費や諸経費はすべて、ケンカ相手である唐人町の石屋が負担することになったようだ。
その額は、現時点ですでに20両余りに達している。
完全に快復するまでには、さらに莫大な費用がかかることは明白である。
恐敷、恐敷、恐敷、つつしむべし、つつしむべし。
大略早々かくのごとし。
酒場での執拗な借金取り立てが招いた夫婦の悲劇
廿六日 時々雨<雨五歩 天気五歩>
暮六ツ(18時)頃、私は五右衛門殿と連れ立って帰宅した。
その道中のことである。
村の橋のあたりから東の方を見渡すと、何やら騒動が起きているらしく、老若男女が騒ぎ立っている。
いったい何事かと不審に思いながら近づいたところ、川端家の奥方が走り出てきた。
彼女は焦った様子で、五右衛門殿に気づくと懇願する。
うちの亭主(川端利右衛門)が酒屋で暴れまわっているので、どうか押しなだめて連れ帰ってほしい、と。
これを聞いた我々は現場へ急行した。
すると庄屋の馬屋の前で、荒れに荒れている利右衛門を、大勢の人が手取り足取りして連行するところであった。
これを見た五右衛門殿は、その人だかりに割って入る。
私は酒屋の様子が心配になり、外の決着を見届けぬまま内へ駆け込んだ次第である。
すると、泉ノ三平の妻が機織場の下に倒れ伏しており、三平自らが薬を与えるなどして介抱している。
これは何事か。
驚いた私が酒場を通って台所の方へ行こうとした際、鉢合わせした半助に事の詳細を尋ねた。
半助の語った内容はだいたい次のとおりである。
今日七ツ下り(16時)頃、三平が角打ち(立ち飲み)に来たところ、利右衛門に会った
いつものことながら、今日の利右衛門はひどく酔っている様子である
どうした風の吹き回しか利右衛門は、三平に向かって「4年前の酒代が7、8匁残っているので、今すぐここで支払え」と、しつこく催促をはじめた
もともと三平は自己都合のいい訳などできぬお人好しである
ただ少し笑って「あと4、5日待ってくれ、そのうちに勘定を済ませるから」と相手にしなかった
すると利右衛門はいよいよ図に乗り、生まれつきの短気と狭量さから、散々悪口を浴びせた挙句に「別の酒代5匁余りも合わせて支払え」などと、理屈の通らない無理難題を押し付けてくる
三平もついに立腹した様子で「品物を持ってきて質に入れ、支払いをしてやる」と、自宅に向かって走り出した
しばらくして三平は小櫃(こびつ)を担いで戻り、これを質に入れようといい張る
これをみた店の旦那が「そんなに腹を立てて払うようなことではない。わずか数匁のことだ」となだめた
そこへ、三平の妻が門口から入ってきた
夫が櫃(ひつ)を担いで走り去ったのを不安に思い、息を切らして後を追いかけてきたのである
利右衛門は三平に「早く払え、早く早く」と激しく急き立てている
さすがの三平も怒りが頂点に達したのか、憤怒に顔面を赤く染めて、なんと(追いかけてきた)自分の妻に向かい、一突きに押し倒してしまったのである
三平は「わが女房の身で、何しに来たのだ!」と怒鳴り散らした
これは本来、利右衛門に対する怒りだった
しかし、相手は50歳を過ぎた老人とはいえ力もある
直接掴みかかるわけにもいかないと考えた小心者の三平は、自分の妻を代わりに突き飛ばしたのである
不運にも三平の妻は、突き倒された拍子に後頭部を強く打ち、気を失ってしまった
にもかかわらず、利右衛門も三平もそれに気づかない
利右衛門は烈風のような勢いで催促をつづけ、三平は倒れた妻を放置し、めったやたらといい返している
三平の妻が一向に起き上がらないのを不審に思った我々が近寄ると、すでに事切れたようにぐったりとしているではないか
周囲の薬や水を求める声にようやく三平も正気に返り、倒れた妻に水を吹き込んだり薬を与えたりし出した
この混乱のなか、なおも利右衛門は催促を繰り返している
これに激怒したのは、重助殿である
彼は、利右衛門に向かって「この状況で何をいっているのだ、早く立ち去れ!」と一喝した
利右衛門もまた腹を立てて悪口を返すと、重助殿は「わずか数匁の、しかも4年前の酒代をそこまで酷く取り立てるなら、こちらの去年の酒代200匁も早く精算しろ!」といい放つ
これに利右衛門はいよいよ怒り狂ったが、近隣の人々もこれ以上は放置できないと、皆で飛びかかって彼を門の外へ引きずり出した
先ほどまで危うかった三平の妻も、ようよう今、気を取り戻したところだ
これを聞いて、私は少し安堵する。
私が台所へ行くと、まだ例の小櫃などが置かれており、騒動の物々しさが察せられた。
しかし、三平の妻が命を落とさなかったのは幸いであった。
もし死んでいたらどうなっていたことか、想像するだけで恐ろしい。
ひとまずその詳細を三歩(三割)だけ記し、残りの七歩(七割)は腹に収めておくことにする。
もっとも、これは私の留守中の出来事であり、すべてを実際に目にしたわけではない。
とはいっても、目の当たりにした騒動後のありさまからして、決して偽りではないはずである。
今回のまとめ
周船寺加勢儀屋の次男「冨永延蔵」が記した『冨永日記』。
その嘉永3(1850)年5月の記録には、平穏な農村社会の裏側でうごめく人間の業や、不可解な現象に対する当時の切実な眼差しが凝縮されている。
最初に、村の女性たちが次々と乱心し、陽気に歌い踊り出すという「奇妙な流行病」の記録。
原因を狐の仕業や水神・荒神の祟りに求める人々の姿からは、近代医学以前の時代において、人智を超えた災厄がどれほど身近な脅威であったかが伝わってくる。(1日分)
また、夜道で鯛売りが襲われた強盗事件や、干拓現場での些細な諍いから起きた凄惨な大ゲンカ。
これらは、のどかな海沿いの風景のすぐ裏側に、衝動的な暴力によって一瞬にして平穏が破られる「危うさ」が常に潜んでいた現実を突きつけてくる。(6日・22日分)
なかでも、酔っ払いの取り立てに端を発した酒場の乱心騒動は、人間の弱さゆえの、理性が崩壊する過程の記録ともいえないだろうか。
酔っ払いの理不尽ないいがかりが、お人好しな男の理性を失わせ、危うく自らの妻を死の淵に追いやる。
この連鎖的な悲劇の記録は、極限状態に置かれた人間の心理を浮き彫りにしている。(26日分)
日記の最後、延蔵は凄惨な現場を目の当たりにしながらも、「死なずに済んだのは幸いであった」と安堵し、あまりの衝撃に詳細を記すことを躊躇いつつ筆を置いている。
最後の「三歩を記して七歩を心中に収める」という延蔵の言葉。
そこには、身近で起きた悲劇を前にした戸惑いと、それでもなお、眼前の真実を「偽りにてあるべからず」と書き残そうとする、記録者としての誠実な矜持が宿っているのである。
・冨永延蔵、コマネズミを飼う ー嘉永三(1850)年歳末の『冨永日記』よりー
・冨永延蔵、フクロウを飼う ー安政三(1856)年初夏の『冨永日記』よりー
・幕末時代の公開処刑 ー近世の周船寺『冨永日記』よりー
・幕末時代のある商家の7月 ー近世の周船寺『冨永日記』よりー
・幕末時代のある商家の正月 ー近世の周船寺『冨永日記』よりー
・近世糸島のできごと ー安政3年の郷土ー
・近世糸島のできごと ー弘化2年の郷土ー
・近世糸島の感染症 ー痘瘡を中心にー
・近世糸島のできごと ー郷土と心温まる話ー
・近世糸島のできごと ー郷土と珍事ー
・近世糸島のできごと ー事件と藩領ー
・近世糸島のできごと ー事件と内済ー
・近世糸島のできごと ー臼杵氏子孫の来訪と原田家の法事ー
・近世糸島のできごと ー幕末の郷土と事件ー
・近世糸島のできごと ー昔の糸島の男女事情を垣間見るー
参考:「【文献解題】冨永延蔵日記」由比章祐 記(『福岡地方史談話会 会報 第19号』1980年)
『嘉永三年 冨永日記』由比章祐 解読(未刊本1984年)








