2019年08月31日

中世の糸島について・ダイジェスト編  2019年8月

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◯ 糸島中世史・ダイジェスト編

 ・ 中世の糸島
 ・ 鎌倉時代の糸島
 ・ 南北朝時代の糸島
 ・ 室町時代の糸島
 ・ 戦国時代の糸島

(長野川/可也山/神在神社のアブラゼミ/志登神社/加布里神社/正覚寺/深江神社 2012年撮影)




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中世の糸島

今回は、これまでまとめた糸島の中世史をさらに簡潔にした「糸島中世史・ダイジェスト編」です。


<糸島中世史に関する記事>
鎌倉時代の糸島
南北朝時代の糸島
室町時代の糸島
戦国時代の糸島・前編
戦国時代の糸島・後編

<参考文献>
『筑前国続風土記』/『糸島郡誌』/『新修志摩町誌』/『二丈町誌』/『前原町誌』/『詳説日本史』など




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鎌倉時代の糸島

12世紀末、平氏との戦いを制した源頼朝は相模国鎌倉に幕府を開いた。
これより西国を中心とする朝廷と東国に本拠を置く幕府による二頭政治がはじまる。
東国武士たちと主従関係を結んだ頼朝は、彼らを御家人として取り立てると、
守護職また地頭職を与えて全国に配置し、各地の荘園・公領に進出させた。
当時の糸島地域には「怡土庄」という皇室領の広大な荘園が広がっており、
平氏滅亡後に衰微した原田氏に代わって筑前国守護・少弐氏が掌握するようになる。 
13世紀後半には、博多湾沿岸に蒙古襲来という国家の非常事態である。
時の鎮西奉行であった少弐氏・大友氏を日本軍の総大将に、九州武士たちの奮戦によって撃退したが、
異国侵攻における迎撃戦では新しい土地の獲得はなく、その恩賞は不十分であった。
そんななか、豊後国の大友氏が志摩郡300町惣地頭職を、
肥後国の詫磨氏が志登社領の地頭職を、元寇の恩賞として拝領している。
鎌倉時代末期、連合して大友氏への年貢上納を怠っているとの理由で、
怡土庄志摩方の名主たちは鎮西探題府に提訴された。
以降は糸島地域の名主層も武力や経済力を蓄えて、
在地武士また在地の小領主として独立の道を歩んでいくようになる。

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元寇の恩賞で肥後国の詫磨氏が社領の地頭職を拝領したという志登神社




南北朝時代の糸島

14世紀前半、蒙古襲来における戦費の負担と恩賞の不十分さなどから、
全国の御家人たちの鎌倉幕府に対する不満は膨らむ一方であった。
後醍醐天皇が発布した倒幕の綸旨は、少弐氏・大友氏・菊池氏ら九州の武将たちにも届き、
彼らの挙兵によって幕府の九州統括を担う鎮西探題府(姪浜城)は攻め滅ぼされた。
鎌倉幕府滅亡後、中央では後醍醐天皇による新政が開始されたが、
武士の存在を軽視する旧弊的な政治であったため、はやばやと武士層の離反を招いた。
挙兵した足利尊氏が京都を攻めるも、官軍の猛攻に敗れて九州に落ち延びてくる。
少弐氏と手を結んだ尊氏は、筑前国多々良浜で菊池勢に大勝し勢力を回復させると、再び京都を目指して東上。
九州勢を引き連れる一方で、尊氏は一色氏ら足利一門の家臣を九州に残した。
新政を崩壊させることに成功した尊氏は、新たに光明天皇を擁立して京都に室町幕府を開いたため、
同時期に南北二つの朝廷が並立する波乱の時代に突入する。
これより全国の守護や国人といった武士階級はそれぞれの利害関係から、
南朝あるいは北朝勢力に味方して、激しい戦闘を各地で繰り広げることになった。
九州では、征西将軍宮・懷良親王を擁する菊池氏・阿蘇氏らの「宮方」、
九州探題・一色氏の「幕府方」、さらに足利直冬を担ぐ少弐氏の「佐殿方」が三つ巴に争う構図となる。
糸島地域でも「一貴山の合戦」や「長野庄の合戦」など各勢力による衝突があった。
少弐氏が菊池勢に大敗して以降は、九州ではしばらく南朝方の有勢が続くが、
足利義満の代になると、九州探題に任命された今川了俊の活躍によって九州も幕府方天下となる。

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南北朝時代始め、少弐氏が太宰府から勧請したという加布里神社(天満宮)




室町時代の糸島

14世紀末、約半世紀にわたる動乱が続いた南北朝時代も、
足利義満によって両勢力の和平がはかられて合一が実現した。
九州では、九州探題の今川了俊とそれに従軍する大内氏ら北朝方と、
南朝方の菊池氏・少弐氏らが争っていたが和睦した。
筑前国は再び少弐氏が領するようになったので、原田・波多江・小金丸ら諸氏も少弐氏の麾下となった。
今川了俊に代わって九州探題には渋川満頼が着任したが、少弐氏・菊池氏らがこれに対抗したので、
この討伐の幕命を受けたことを機に、周防国・大内氏の九州経略がはじまる。
ここからは少弐氏・大友氏・菊池氏ら九州武将と大内氏の激戦の時代を迎え、
怡土郡二丈岳麓においても、両勢1万の激突が展開された。
この戦いでは、主将・大内盛見が志摩郡の士・牟田孫右衛門に討ち取られて戦死。
その後、二丈岳における敗戦から勢力を回復させた大内氏は、
少弐氏らを討ち破って対馬に後退させると、筑前・肥前の敵対勢力を帰属させた。
原田氏をはじめ糸島地域の武士層のほとんどが大内氏の麾下についたと思われる。

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少弐・大友・菊池勢と大内勢が合戦した時、その戦火で一度は焼失したという正覚寺




戦国時代の糸島

15世紀半ば、中央では戦国争乱の幕開けとなる応仁の乱がはじまる。
大内氏の軍勢催促を受けた原田氏は、波多江・小金丸以下を率いて上洛し、
数度の合戦において軍功を挙げたので、同族すべての所領を加増された。
乱の前後より九州への侵攻を本格化した大内氏は、筑前・豊前の大友・少弐勢力を駆逐して勢力を拡張。
16世紀前半、幕府の要請によって大内氏と大友氏が和睦すると、志摩郡も大友領に帰したので、
志摩郡政所となる柑子岳城には、大友一族の臼杵氏が入って統治を代任した。
臼杵氏は志摩郡衆と与力関係を結び、郡内における大友方の求心的軍事力を構築。
同じく大友氏勢力圏内にあった怡土郡高祖城・原田氏は反大友方に寝返ることが多く、
そのたびに臼杵氏率いる志摩郡衆らと敵対、激しい抗争を繰り返した。
16世紀後半には、薩摩国の島津氏との戦いで大敗を喫した大友氏が急速に勢力を衰退させたため、
ついには原田氏が志摩勢を制圧して怡土・志摩の両郡を掌中に収める。
しかし原田氏の両郡統治の期間は短く、豊臣秀吉の九州征伐を前に所領のすべてを没収された。
秀吉の全国統一を果たした後は、糸島地域を含む筑前国は小早川隆景の領するところとなった。

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朝鮮出兵の時、太閤秀吉が参拝したという深江神社





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2019年07月31日

戦国時代の糸島について・後編  2019年7月

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◯ 戦国時代の糸島について・後編

 ・ 糸島戦国史年表<更新>
 ・ 室町幕府滅亡、その時九州では
 ・ 原田了栄の悲嘆と極楽寺の再興
 ・ 大友宗麟の大敗と大友領内の反乱
 ・ 第2次 生の松原合戦 原田氏、大友軍に再び勝利する
 ・ 第3次 生の松原合戦 志摩郡も原田氏統治下に
 ・ 鹿家合戦 原田氏、波多氏の怡土郡侵攻を防戦する
 ・ 島津勢、北部九州侵攻を強める
 ・ 秀吉の九州平定始動と高祖落城
 ・ 豊臣秀吉の九州平定と原田信種のその後
 ・ 深江神社と秀頼誕生の報

(深江神社/松国の太閤道 2019年7月撮影)




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糸島戦国史年表<更新>

今回の糸島中世史は、前回の室町時代・前編に続いて、その後編です。
室町幕府が滅亡してから豊臣秀吉の朝鮮出兵あたりまでをまとめてみました。


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太閤伝説を残す深江神社




室町幕府滅亡、その時九州では

元亀4(1573)年7月、15代将軍・足利義昭が敵対する織田信長に京都を追放されて、
足利尊氏創設以来の室町幕府は、この時点で事実上滅びた。
中央では将軍不在のまま政権を握った織田信長が、天下人への歩みを急速に進めていたが、
これに先立って南部九州では、元亀元(1570)年に島津義久が薩摩国統一を実現すると、
さらに禰寝・肝付・伊地知氏ら在地勢力を次々と屈服させて大隅国も勢力下に置いた。
天正4(1576)年には、残る日向国も高原城・伊東氏を攻略して、
これより南部九州3国は島津氏の領するところとなった。
日向国を追われた伊東義祐は、大友宗麟を頼って豊後国に亡命したため、
北上に勢力を拡張してきた島津勢を危惧した大友氏は、日向国への出陣を決定する。




大友宗麟の大敗と大友領内の反乱

天正6(1578)年10月、大友宗麟は数万の勢を動員して、
肥後口と豊後口の二方より日向国に軍を進めた。
志賀道輝・朽網鑑康・一萬田鑑実・佐伯入道・田原親賢・田北鎮周ら大友家重臣の諸将ほか、
志摩郡柑子岳城の前城代にあった臼杵鎮続も参戦。
九州制覇を賭けた南北両軍による激突は、はたして大友氏の決定的ともいえる大敗北に終わる。
この敗戦で大友氏は多くの要となる戦力を失って、北部九州の領国内では反乱が勃発。
筑前国は秋月氏・宗像氏・麻生氏・筑紫氏らが、
豊前国では城井氏・長野氏・千手氏らが次々と反大友方に寝返った。
また、肥前国の龍造寺隆信はこの内乱に乗じて大友領への侵攻を強めており、
高祖城・原田了栄も龍造寺氏の誘いに応じて、大友方の国人・地侍衆の駆逐に働いた。




原田了栄の悲嘆と極楽寺の再興

天正2(1574)年4月、池田川原合戦での臼杵氏自刃の責任追及のため、
主君・大友宗麟の命によって、高祖城・原田親種は自刃した。
これにより嫡男を失った同城主・原田了栄の悲憤は大きく、
天正11(1582)年には遠祖・原田種直の開基した天台宗極楽寺を再々興し、
曹洞宗に改めて萬歳山と号し、これを親種の菩提とした。
これが現在の二丈波呂にある龍国寺である。
原田親種は了栄の三男であったが、この兄が肥前国鬼ヶ城・草野家に養子入りしており、
この二男(了栄の孫)は肥後国・龍造寺隆信の人質にとられていた。
そこで、原田了栄は龍造寺氏に願い出て、孫を佐賀にて元服させると、
「原田信種」と称して原田家の家督を継がせた。




第2次 生の松原合戦 原田氏、大友軍に再び勝利する

天正7(1579)年7月、反大友方に味方する高祖城・原田了栄に対して、
大友家重臣の戸次道雪・高橋紹運・志賀道輝が牒合して高祖山の城攻めを計画した。
早良郡安楽平城にて軍議を起こし、同城主・小田部鑑湖の献策も採り入れて、5,000の軍勢をもって出陣。
立花氏率いる4,000の兵が姪浜から海路を伝って横浜へ上陸する一方、
陸路からは小田部・大津留氏ら1,000の兵を二分して白石坂・日向峠より攻め込む作戦であった。
対する高祖勢は、原田藤種・有田因幡守に400人を添えて白石坂に、
深江豊前守・富田大膳亮を将とする500人を日向峠に配置した。
さらに、原田種守・波多江種賢・水崎長元・鬼木清元・笠進ら3,500を鎮守の曲輪に、
原田祐種・中島治部左衛門・池園播磨守ら400の兵を如意輪山に控えさせて守備を固めた。
横浜に上陸した立花勢が今津潟を斜めに進行しているとの報を受けた原田了栄は、
ただちに鎮守の曲輪に配した兵を小金坂に集めると、自ら曲輪に立って戦闘の指揮を執った。
まもなく小金坂で立花勢と激突するも、これを如意輪山に布陣する高祖勢が横から突いたので、
立花勢はたまらず周船寺の河原に退却したが、そこに岩隈・波多江・松隈・浦志ら高祖勢が追撃をたたみかける。
さらには北浜の潮干潟から横浜までの退路を断たれたため、立花勢は船着場へ戻れずに、
長垂山を越えて別軍に合流しようとしたが、この時高祖勢の一人が長垂山から鉄砲を撃ったので、
やむなく立花勢は生松原を東に退くほかなかった。
他方、白石坂・日向峠より攻めた小田部・大津留氏らの勢も功を奏さず安楽平城に敗走し、
まさに原田了栄以下の戦略的勝利ともいうべき内容で、戸次道雪・高橋紹運・志賀道輝らを退陣させた。
これ以降、原田了栄は早良郡西部の地も掌握するようになったという。




第3次 生の松原合戦 志摩郡も原田氏統治下に

生の松原における対大友軍に連勝し、ますます威勢をふるう原田了栄は、
志摩郡大友方の一掃をはかって柑子岳城を攻囲した。
同城には、天正5(1577)年より大友一族の木付鑑実が城督として入部しており、
家臣らとともに籠城し抵抗したが、やがて兵糧(食糧)不足に陥った。
このため、同年(1579年)8月には大友家重臣の戸次雪道が兵糧補給を目的に、
後藤隼人佐以下1,500人の軍勢を志摩郡に派遣。
しかし、その途中で鬼木・波多江・小金丸ら高祖勢1,500人とみたび生の松原にて対陣した。
結果は両軍痛み分けながら、柑子岳城への兵糧入れは実現せず、
同年冬には兵糧も尽きて、木付鑑実は開城し糟屋郡立花山城に撤退した。
また、この前後に原田了栄は志摩郡内の砦(とりで)も攻め立てたので、
これに降った小金丸・由比・泊・馬場・古庄の諸氏は、
いよいよ城館を開け渡して浪人になるか、原田氏傘下に属するかの選択を迫られた。
小金丸氏のみ本領を安堵されているが、これより志摩郡の在地諸勢力も
原田氏の支配下に統合されたとみられる。




鹿家合戦 原田氏、波多氏の怡土郡侵攻を防戦する

養子となって原田家を嗣いだ原田信種(了栄の孫)は、了栄の老衰もあって、
原田家の諸事については、実父である肥前国鬼ヶ城主・草野鎮永に相談することが多かった。
ところが、これを知った岸岳城主・波多信時は草野・原田の両家を軽んじて、
上松浦の境界にある山川を押領しようと働いたので、両勢は怡土郡鹿家において対峙することになった。
天正12(1584)年3月、大村氏の加勢を得た波多勢3,000人は浜崎より鹿家に侵攻し、
原田領の民家を焼き払って領民男女200人を殺害。
対する原田信種は、波多江・笠・石井・上原・小金丸・有田・富田・鬼木・岩隈ら3,000の軍勢をもって、
鹿家に攻め上り二方から敵勢を挟み討ちして、さらには深江・吉井勢の追い討ちを加え、
波多勢を唐津方面へ敗走させて決着した。




島津勢、北部九州侵攻を強める

大友氏が衰勢に向かうや、筑後国を抑えるなど急速に勢力範囲を伸ばした龍造寺隆信が、
天正12(1584)年3月に肥前国有馬で島津勢に敗れて討ち死したため、九州の勢力図は大きく変動する。
大友氏の命により戸次道雪が筑後国を攻めて同国旧領こそ奪回したものの、
肥後国以南の国人衆の多くは島津氏に従うようになっており、
筑前国においても秋月種実が島津氏に靡いたのを機に、原田了栄・信種父子も薩摩方に与した。
翌年(1586年)6月、北上侵攻を本格化した島津勢は、島津義弘を先鋒に伊集院氏・野村氏の兵を添えて、
肥前国勝尾城・筑紫広門を攻めて降伏させると、続いて筑前国岩屋城・高橋紹運を攻囲。
歴史に残る攻城激戦の末、高橋紹運以下を自害させたが、
この時、原田信種は家臣の富田国茂らを島津方に派遣している。




秀吉の九州平定始動と高祖落城

島津勢の侵攻圧力は、本拠地である豊後国まで迫り、大友氏の滅亡はもはや時間の問題となった。
この窮地を打開したい大友宗麟は、中央で全国統一を進める豊臣秀吉に大阪城で謁見し、
自らが秀吉に忠誠を尽くすことを盟約した上で、対島津戦における軍事的支援を求めた。
これに応じた秀吉は、天正14(1586)年8月、黒田孝高・安国寺宮木入道を先発に、
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に命じて山陽道の兵を北九州へ発向させた。
この大規模な軍勢接近の報を受けた原田一族以下の家臣らは、ただちに当主・原田信種に降参を勧めたという。
しかし、信種はこれを聞き入れず、城下の大門河原に兵を結集させて、城の周囲に以下のように守備を命じた。

 ●長垂山・・・富田・上原・大原・波多江・矢野・近藤ら500人
 ●油 坂・・・笠・中嶋・有田・長野・吉富・朱雀・下郡・柴田ら500人
 ●日向峠・・・鬼木・泊・萩原・三嶋・石井・井上・中宮ら600人

さらに、城中には籠城戦に備えて、小金丸・牧園・波多江・鬼木・窪・豊田・西原・深江・吉井・
中園・松隈・田尻・行弘・国枝・谷ら2,000人を控えさせた。
この布陣を前に小早川隆景は、高祖城に改めて使者を送って降参を勧告したが、
なおも信種は拒否したため、大軍を高祖城に進めた。
そして、小早川軍先鋒は福田左近・児玉隼人に加えて
黒田家臣の久野四兵衛・衣笠右兵衛らが、油坂の原田勢を突破。
長垂山に構える富田・大原・上原らが小早川勢を挟み討ちにするが、
この隙を突いて長垂山を越えて高祖城大手に攻め込まれたため、
高祖勢はもはや籠城戦を免れないという状況となる。
この時、城内の主将・原田信種が本丸の上より東方を見渡したところ、
博多の西より3〜4里の間に、おびただしい数の旗指物、馬物具のきらめく行軍を目の当たりにした。
これに肝をつぶした信種は、城内評議にも及ばず降伏を表明。城攻めは中止された。
降人となった原田信種は開城し、鬼木・波多江・木原・山崎・笠・有田・平山・中園・上原ら
家臣とともに高祖山を下りた。高祖城はその後取り潰しとなった。




豊臣秀吉の九州平定と原田信種のその後

天正15(1587)年3月、九州平定を目指して豊臣秀吉自ら小倉に着陣した。
ここに総勢20万を動員し、南北2軍に分けて北部九州各国を経て薩摩国までを攻め下り、
最後は島津義久も降伏させたので、秀吉の下に九州全域は平定された。
その後、高良山で秀吉と拝謁した原田信種は、その所領の程を問われた際に、
怡土・志摩・早良3郡に加えて那珂の半郡と肥前国草野郷などを領していながら過少に申告した。
これが秀吉の怒りを買い、「小身にては家を立てること無用」と旧領を没収されている。
その後、肥後国の佐々成政の与力を経て、同国の加藤清正の与力となった原田信種は、
文禄元(1592)年に秀吉の朝鮮出兵が始まると、加藤清正に従軍して海を渡った。
これに随行した糸島地域の人々も多数で、原田一族をはじめ池園・石井・中園・大原・鳥越・鬼木・
深江・上原・富田・友枝・行弘・萩原・西・深江など700人あまりを数えるという。
慶長3(1598)年9月、原田信種は同地にて戦死した。




深江神社と秀頼誕生の報

建久8(1197)年、原田家の守護神として、
太宰府より勧請された竈門神社を起こりとする深江神社は、
朝鮮出兵のため、秀吉が肥前国名護屋に在陣中参詣したという伝承が残る。
奇しくもその日、秀頼の誕生の報を受けたという。
57歳にして初めて自身の血を分けた男子に恵まれた秀吉は、手をたたいて喜んで、
深江神社は秀頼の産神として、筑前国領主に任命した小早川隆景に命じて社殿を再建させている。
境内に入って2つ目の扁額のない鳥居も、小早川隆景が立てたものである。




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小早川隆景が立てたという、境内入って2つ目の鳥居は額がない

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境内には、秀吉がお茶会を開催したという跡地も残る

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二丈松国には秀吉が名護屋に向かう途中に通ったとされる道があるが・・・




posted by 由比 貴資 at 23:12| Comment(0) | 糸島近世史

2019年06月29日

戦国時代の糸島について・前編  2019年5月

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◯ 戦国時代の糸島について・前編

 ・ 糸島戦国史年表
 ・ 応仁・文明の乱はじまる、その時九州では
 ・ 大内氏の九州経略再び
 ・ 10代将軍・足利義材の復権
 ・ 大内氏と大友氏が和睦し、志摩郡は大友領に
 ・ 大内氏の滅亡と原田氏の衰勢
 ・ 陶氏の滅亡と原田氏の復帰
 ・ 原田了栄、再び大友氏に叛旗をひるがえす
 ・ 原田了栄、糸島の大友方を攻撃する
 ・ 龍造寺隆信、怡土郡を侵攻する
 ・ 池田川原の戦い(前) 原田勢の勝利
 ・ 原田了栄、再び大友氏に帰属する
 ・ 池田川原の戦い(後) 志摩勢の完敗
 ・ 大友宗麟の逆鱗と原田親種の切腹

(怡土:高祖山/高祖山城跡/高祖神社 志摩:柑子岳/平等寺跡・山茶花塚 2019年5月撮影)




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糸島戦国史年表

今回の糸島中世史は、前回の室町時代編に続いて、戦国時代(前編)です。
応仁・文明の乱がはじまり戦国期に突入してから室町幕府滅亡までをまとめてみました。


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15世紀後半より全国的な戦乱の世に突入すると、旧来の権威ばかりが通用する時代ではなくなり、
下剋上によって低身分から出世する大名の例が珍しくなくなった。
大名がより強固な権力基盤を築くためには、家臣団の形成と結束が必要であり、
領地拡大と領国内の国人や在地武士の被官化は一体であった。
大名は家臣の身分や本領を保証すればこそ、彼らを自陣営の戦力として動員させることができたのである。
そこには必ずしも「絶対的な」主従関係があるとはいえず、あくまで互いの利害一致が前提にあった。

それまで九州で覇権を確立していた守護大名には、
筑前国・少弐氏、豊後国・大友氏、薩摩国・島津氏の、いわゆる九州三人衆という存在があった。
しかし、南北朝合一の前後より周防国・大内氏の北九州侵攻が本格化すると、
その圧倒的軍事力を前に敗戦を重ねた少弐氏は衰退の一途をたどる。
そして、戦国時代後期には、家臣であった龍造寺氏との対立により少弐氏は滅亡に追い込まれ、
代わって龍造寺氏が肥前国とその周辺まで勢力を拡大する。

少弐氏に限らず、複数の領国を有する大名であっても絶対王者などいなかった。
最盛期には筑前・豊前国を含む7ヵ国を領し、西国随一の大名といわれた大内氏ですら、
家臣の謀反によって一瞬で崩壊してしまうのである。
絶え間ない争乱の中、自己の権勢をいかに拡大また維持していくかは、
上位権力者とその周辺勢力の動向把握、それに家臣や領国民といった下部の支持獲得こそが重要であるが、
そこには常に「時勢」という不可抗力が加わって、個人の盛衰などはいかようにも変化していった時代といえる。





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高祖山の西麓に鎮座する高祖神社




応仁・文明の乱はじまる、その時九州では

応仁元(1467)年、室町幕府では足利将軍家をはじめ、
斯波・畠山といった管領家(幕臣筆頭)の継嗣問題に端を発し、
守護大名の細川勝元と山名宗全を筆頭にして東西に敵対する勢力争いに発展した。
全国的争乱の幕開けとなった応仁の乱のはじまりである。
同年8月、西軍・山名宗全方に与した大内政弘の軍勢催促を受けた原田種親は、
同種家・波多江種盛・原種幸・江上種平・高橋種常・小金丸弘兼以下を率いて上洛し、
数度の合戦において獅子奮迅の活躍があった。
この功により、原田種家は大内政弘から偏諱を受けて「原田弘種」を名乗るようになり、
以下同族すべてに恩賞が施行されている。

一方で、大内氏と対立し対馬に後退していた少弐教頼は、
東軍・細川勝元方に与して幕府に帰参すると、筑前国を中心とする旧領奪回をはかることになる。
応仁2(1468)年正月、千葉・菊池氏らと挙兵した少弐教頼は、怡土郡・高祖城を占拠したところ、
かえって大内勢に攻囲されて、追い詰められた志摩郡水崎城で自害した。
その翌年(1469年)春、教頼の子・少弐政資は、父の遺志を受け継ぎ、
京都の大乱で旧領の大内方守備が手薄の間隙をぬって、対馬守護代・宗貞国らとともに筑前太宰府に進攻。
大内方の代官・新井廣貞を破った少弐政資は、念願の太宰府を、
その後は順調に豊前方面を回復させて、幕府よりその所領を認められた。




大内氏の九州経略再び

応仁・文明の乱終盤以降、大内氏は再び九州計略に注力するようになる。
文明9(1477)年、大内政弘は筑前国守護代の杉興真・鳰弘忠らの
軍勢をもって筑前国に進撃し、少弐氏を肥前国に後退させた。
明応5(1496)年、旧領回復を目指す少弐勢は、筑前国を舞台に大内勢と戦っていたが、
政弘の跡を継いだ大内義興が数万の軍を催して、筑前国より肥前国三根郡、
さらに同神崎郡を攻めて少弐政資・高経父子を圧倒し、少弐政資を自殺に追い込む。
その後も、幕府の九州統治機関である九州探題の渋川氏を支援しながら、
大内氏は北部九州での権益を着実に拡張していった。




10代将軍・足利義材の復権

明応2(1493)年、幕府では管領・細川政元と対立した10代将軍・足利義材が将軍職を放逐されて、
新将軍にその従弟の足利義澄が擁立された。(明応の政変)
将軍復職を願う足利義材は、地方を転々としながら大内義興を頼りに周防国へ落ち延びた。
これを大内義興は全面的に支援し、自らの畿内進出の時期をはかることになる。
永正4(1507)年11月、西国の兵20万を結集させて上洛した大内義興は、
細川澄元の軍勢を撃破し、足利義材の将軍復帰を実現させた。
この時、洛北舟岡山にて先鋒で奮戦したのが原田興種であり、
戦闘に参加した一族以下、波多江種広・小金丸種連らも所領を加増されている。




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高祖山頂上にある高祖城上ノ城趾とそこからの眺望




大内氏と大友氏が和睦し、志摩郡は大友領に

天文元(1532)年10月、九州への出兵を本格化した大内義隆は、
陶、杉、鳰ら守護代率いる軍を派遣して、筑前・豊前国における大友・少弐勢力を攻撃した。
原田氏など糸島地域の武士層の多くも大内方に与したが、
大友方の志摩郡士・是松太郎は高祖城を攻めたので、
原田家臣・西左衛門四郎が槍傷7ヵ所を負うなど防戦に奮闘している。
その後、大友勢が多々良浜の戦いで敗退すると、志摩郡も大内氏の領するところとなり、
柑子岳城には大内家臣の梅月頼致が郡代また城代として入り、郡内の政所を司るようになる。
天文7(1538)年3月、幕府の要請によって、大内義隆と大友義鑑が和睦したため、
筑前国も大友氏に返付されて志摩郡は大友領に帰した。
これよりは、志摩郡内の政所また軍事拠点となる柑子岳城には、
大友一族の臼杵親連と同鑑続が入城して、博多津内の行政や外交も兼職するようになる。
また、元岡・古庄・由比・小金丸・泊ら在地武士と与力関係を結ぶことで、
郡内における大友方の求心的軍事力の構築をはかった。




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戦国期の大友領志摩郡政所となった柑子岳城があった柑子岳

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水崎川から柑子岳方面を望む




大内氏の滅亡と原田氏の衰勢

天文20(1551)年9月、周防山口を本拠に強大な軍事力と経済力をもって、
中国地方から北九州までを席捲した大内氏が滅亡に追い込まれる。
家臣である陶晴賢の謀反によるあっけない幕切れであった。(大寧寺の変)
その後、大内家の実権を握った陶晴賢は、大内氏とは敵対関係にあった大友義鎮と同盟し、
義鎮の弟を「大内義長」と称させて大内家を乗っ取ることに成功する。
旧臣の中には大内氏の恩顧を慕って陶氏に服さぬ者も少なくなく、高祖城主・原田隆種もその一人であった。
このため、翌年(1552年)4月には、陶・大友氏の派遣した軍勢に高祖城は攻囲された。
この時、城内では原田不利を悟った西重国を支柱とする西一族をはじめ、
王丸隆や森田弥太郎、庄崎孫太郎など敵方に内応する者が続出したため、
高祖城はあえなく陥落し、降伏した原田隆種は蟄居の身となった。




陶氏の滅亡と原田氏の復帰

弘治元(1555)年10月、安芸国・毛利元就が厳島の戦いにて奇襲作戦で陶晴賢を自害させて、
その翌年には、陶晴賢の傀儡に過ぎなかった大内義長も討ち滅ぼした。
これにより、毛利氏が中国地方大内領の大半を手中に収める一方、
北部九州はそっくり大友氏の掌握するところとなった。
永禄2(1559)年6月、大友義鎮は筑前・豊前・肥前3カ国の守護職に、
同年11月には九州探題に任じられて、この頃には大友氏は北部九州における最大勢力を誇る存在となる。
大友氏に服して高祖城に復帰した原田隆種は、ただちに怡土郡長野庄の筒城主・西重国の討伐を指揮した。
なぜなら、西重国といえば大永年中(1521-1527年)には深江種秀とともに原田家の宰老という地位にあったが、
陶・大友軍の高祖城攻めでの背信に加え、
肥前国の龍造寺隆信に内通するなど顕著な叛心の動きを示したからである。
深江宮内大輔と納富越後を主将に、得永弥五郎と近藤左近を副に編成された討伐軍500人は、
筒城を攻め上り一昼夜のうちに攻略し、西一族以下150人は討死。
援軍を乞うため肥前国に向かった城主・西重国の一行も、
高良山麓で清原左京、大神甚太夫ら追っ手にかかり討たれた。
この頃には原田隆種は出家し「原田了栄」を名乗るようになる。




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西氏の居城のあった辺りと思われる雷山・筒城神社跡地。神籠石の傍である(2012年晩夏撮影)




原田了栄、再び大友氏に叛旗をひるがえす

永禄11(1568)年、毛利元就は九州制覇を目論んで北九州への侵攻を企図した。
立花山城主・立花鑑載に続いて岩屋城主・高橋鑑種ら大友氏の重臣がこれに呼応し、
主君への不信の念から叛旗をひるがえした。
さらに秋月種実や龍造寺隆信、原田了栄・親種父子らも毛利方に味方して挙兵。
これに対して大友宗麟は、戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理・吉岡宗歓ら
諸将に2万の兵を動員させて、反乱軍の討伐を命じた。
志摩郡柑子岳城代・臼杵鎮続も討伐支援の催促を受けて太宰府に発向したものの、
高祖城主・原田了栄が、この好機逸すべからずと、守備手薄の柑子岳城を攻略。
この急報に接した臼杵鎮続は、すぐに志摩郡へ兵を返して柑子岳城を奪回し、
そのまま高祖城まで追撃すること数度、原田親種を筑後に敗走させた。

同年7月には、戸次鑑連ら大友勢によって立花山城は落されて、
原田親種も敗退するに至ったが、その父・原田了栄は原田親秀以下4000の兵を救援に走らせた。
これと追討の戸次勢が生の松原にて激突し、原田親種の子・秀種ら数十名の戦死者を出すも、
原田勢が勝利している。(第1次生の松原合戦)

同年8月、関門海峡を越えて吉川元春・小早川隆景らが立花山城奪還のため、豊前を経て筑前国へ侵攻。
翌年(1569年)の夏には、毛利元就の本隊4万が上陸し豊前・筑前国を攻めたが、
領国内の内乱勃発との報を受け、急ぎ中国地方へ退却した。
この時、博多で毛利軍と戦って功を賞された大友方には、柑子岳城代・臼杵鎮続を筆頭に、
元岡・小金丸・泊・古庄・波多江ら志摩郡衆の名がみえる。




原田了栄、糸島の大友方を攻撃する

同年9月には、すでに反大友の旗色を鮮明にした原田了栄は、
兵800人を率いて、怡土・志摩郡内の大友方の攻撃にかかった。
怡土郡長石村は西鎮家が根拠にする宝珠岳城を目指し、その途中、
西鎮家の弟で瀬戸村・天降天神社務の西豊国が構える要害を破ると、
原田軍には波多江・岩隈以下が加わり、一気呵成に宝珠岳城も落とした。
城主・西鎮家は、山伝いに一貴山の峰から雷山旗振岳に籠もって抵抗したが、
原田勢の急追鋭く、家来40人とともに自害し、残る10人は降伏するに至った。

士気高揚の原田勢は、転じて志摩郡中通り(現在の202号線沿い)に進軍。
志摩郡大友勢の制圧をはかって柑子岳城に向かったが、同城代・臼杵鎮続に同心する
由比・泊・元岡・古庄・小金丸・馬場・松隈らがただちに郡内の各要害に籠城し、
柑子岳城の詰番など防衛態勢を固めたため、攻撃を取止めて軍勢を引き上げた。




龍造寺隆信、怡土郡を侵攻する

その後まもなく原田了栄は、2,000の兵をもって曾根原に出陣している。
先に滅んだ西氏の救援依頼を受けた肥前国の佐賀城主・龍造寺隆信が、
3,000の軍勢で六呂山を越えて、怡土郡三坂村に攻め寄せてきたのである。
筑前・肥前国の境界に位置する「うなぎれが辻」で、両陣がにらみ合うこと2日。
はたして合戦は回避されて龍造寺勢が撤退した。
しかし、翌年(1568年)夏、再び龍造寺隆信の軍勢が怡土郡に侵攻してきたため、
原田了栄は吉井・深江・波多江・小金丸など在地武士を率いて鹿家峠で防戦。
この戦いに敗れた原田了栄は、孫の五郎を人質に渡して講和をはかっている。
少弐氏の一家臣に過ぎなかった龍造寺氏も、この頃には肥前一国とその周辺を領する大名となり、
九州の北部は、大友氏・毛利氏・龍造寺氏の三強鼎立の時代を迎えた。


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池田川原の戦い(前) 原田勢の勝利

大友氏より志摩郡統治を一任された柑子岳城代・臼杵鎮続にとって、
目下の対敵は、南に向かい合う反大友方の怡土郡高祖城主・原田了栄であった。
原田勢の城攻めを阻止した翌年(1569年)7月、大友宗麟の下知により、今度は志摩勢が高祖城を攻めた。
主将・臼杵鎮続は、泊中務少輔・同又太郎・由比重富六郎・同大学助・元岡右衛門太夫・馬場越後守・
松隈将監ら志摩郡士と計略を凝らし、大友家臣の立花・高橋氏の援兵を乞うて、高祖山麓の小金坂まで出撃。
しかし、結果は利あらず。
原田勢に三方から挟撃されて、臼杵勢は総崩れとなり、三雲から池田川原伝いに柑子岳城へ敗走した。
池田川原に懸け並べられたという首級は233にのぼり、
以降は志摩郡中通り一帯の大友方も原田氏に従うようになった。




原田了栄、再び大友氏に帰属する

永禄12(1569)年春、大友宗麟と龍造寺隆信が和睦し、
高祖城・原田了栄は再び大友氏の麾下に属することになる。
原田了栄には4人の男子がいたが、三男は肥前国松浦郡の鬼ヶ城主・草野家に養子に入っており、
草野鎮永と称し、原田氏の幕下にあった。
ところが、これと同じく原田氏に従う筑前国怡土郡の
吉井岳城主・吉井隆光が領地の境界について争いを繰り返しており、
原田了栄が深江豊前守を仲介し和睦を促すも、草野側はかたくなに応じない。
挙句の果てには、元亀2(1571)年正月、
草野側が吉井・深江の城下を焼き払うという武力行動を起こす始末であった。
このため、小金丸・波多江・由比重富などの志摩勢も吉井・深江方の助勢に入って吉井浜に野営していたところ、
帰陣したとみせかけた草野勢の不意打ちの夜襲で志摩勢ら36人が戦死。
すぐさま深江豊前守の軍勢が参じて草野勢を鹿家峠まで追撃し首級100を討ち取って、
翌2月に太守・大友宗麟の下知により、草野と吉井・深江の両勢は和睦するに至った。




池田川原の戦い(後) 志摩勢の完敗

元亀2(1571)年、臼杵鎮続は柑子岳城代を解任されると、代わってその弟・臼杵鎮氏が志摩郡に入部した。
翌年正月、今津毘沙門参詣の原田了栄一行はその帰途で、臼杵鎮氏の伏兵による急襲を受ける。
これを契機にして、両勢数千の兵が再び池田川原にて合戦。
臼杵勢は泊・馬場を先駆に、由比・元岡・田尻・桑原らが助勢に加わり、
対する原田勢は富田・有田・水崎・中島・西・鬼木らが戦闘を交えた。
今こそ決着の時と、細石まで出馬した老将・原田了栄は、
石井・上原・大江・笠・萩原・三坂・木原・西原と援軍を差し向ける。
やがて数で劣る臼杵勢の敗色は濃厚となり、臼杵方の部将・馬場越後守は中島治郎左衛門に、
泊又太郎は西原刑部に討たれ、泊中務少輔は自刃。
ここに臼杵勢は大敗を喫し、潤村土師の平等寺内に追い詰められた
主将・臼杵鎮氏は家来28人とともに切腹し果てた。
討ち取られた首級は260に及んだという。
これ以降、臼杵方にあった小金丸民部大輔も人質を出して降伏し、
波多江一族をはじめ、岩隈・松隈・浦志・由比重富らが原田氏の幕下に帰した。




大友宗麟の逆鱗と原田親種の切腹

原田氏の攻撃による臼杵鎮氏の敗死は、大友氏の勢力圏内にある両勢衝突による結果である。
臼杵氏といえば、加判衆を務める大友家重臣の家柄であり、これを知った大友宗麟は憤激したという。
原田了栄の刎首を命じられた前任の城代・臼杵鎮続が再び志摩郡に派遣されて、その下知状は原田了栄に渡り、
その嫡男である親種が切腹に応じたため、表面上は大友氏の麾下に属する原田家の面目は保たれた。
その前年(1574年)には、織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放し、事実上室町幕府が滅亡。
時代は中世から近世へ移行する。
続きは次回「戦国時代の糸島について・後編」でまとめたいと思います。




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平等寺跡前には由来掲示板が立っている。ちょうど2年前に訪れた時はなかった

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2度目の池田川原の合戦で自害した臼杵鎮続以下の士を祀る山茶花塚




posted by 由比 貴資 at 23:05| Comment(0) | 糸島中世史

2019年04月30日

室町時代の糸島について  2019年4月

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◯ 室町時代の糸島について

 ・ 中世という時代区分
 ・ 南北朝の合一、その時九州では
 ・ 大内氏と九州
 ・ 二丈岳の戦い
 ・ 淀川と千人塚
 ・ 博多祇園山笠での少弐・原田勢の乱闘
 ・ 二丈岳の戦い後の大内氏と九州
 ・ 応仁・文明の乱はじまる

(深江・二丈岳/淀川/千人塚/正覚寺 2019年4月撮影)




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中世という時代区分

今回の糸島中世史は、前回の南北朝時代編に続いて、室町時代編です。
南北朝合一後から応仁・文明の乱がはじまり戦国期に突入する前までをまとめてみました。


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二丈岳中腹で見かけたヤマカガシ




南北朝の合一、その時九州では

明徳3(1392)年10月、約半世紀にわたる動乱が続いた南北朝時代も、
将軍・足利義満の命により両勢力の和平が図られて、事実上南北朝の合一が実現した。
この頃の九州では、九州探題・今川貞世(了俊)それに従軍する大内義弘ら北朝方と、
南朝方の菊池武朝と盟を結ぶ少弐貞頼らが争っていたが、南北朝合一を機に和睦した。
幕府による調停後、筑前・肥前は再び少弐氏が領するようになったので、
原田・秋月・波多江・小金丸ら各氏も少弐氏の麾下となった。


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応永2(1395)年7月、今川貞世が九州探題を罷免されて京都に召喚されると、
その翌年2月には渋川満頼が後任として九州入りした。
心ならずも守護職を剥奪されて不服の少弐・菊池氏らがこれに対抗したので、
幕府の命を受けた大内義弘や大友親世らが追討軍を動員し鎮定した。
これ以降、周防山口を拠点にする大内氏が本格的に九州経略を開始。
少弐・大友・菊池氏これら九州武将との激戦の世紀を迎えるのである。




大内氏と九州

大内氏と九州の関わりは、応安4(1371)年に
時の九州探題・今川貞世に従軍して九州に下って来たのがはじまりである。
九州における南朝勢力追討に大いに活躍した大内氏は、
応安7(1374)年9月には豊前国の守護職に補任された。
室町幕府に忠実に勤めた大内氏は、守護領国を6カ国まで拡大したが、
その勢力が強大化し過ぎたことで、幕府に危険視されるようになる。
幕府の度重なる挑発に、ついに打倒足利将軍の兵を挙げた大内義弘は、
激闘の末、幕府軍の総攻撃に耐え切れず堺で戦死した。(応永の乱)

その後、大内家の家督争いに勝利し遺領を受け継いだのは、
義弘の弟・盛見(もりはる)で、周防・長門の守護職を幕府に安堵された。
幕命に従って九州探題・渋川氏を支援した盛見は、九州経営にも尽力したため、
応永15(1408)年には豊前の守護職に返り咲いている。
応永32(1425)年、九州探題・渋川満直が少弐満貞・菊池兼朝らに敗れると、
盛見は大軍を率いてこれらを撃退するといった、両勢力の衝突が連年続く。

永享元(1429)年、筑前は幕府の御料国(直轄地)となるに及んで、
大内氏がこの代官に任命されたが、従来より筑前の大部分は少弐・大友氏の領有するところである。
同地をめぐって両勢力の戦闘激化は必至で、こうした九州の情勢をみた幕府は、
使僧を派遣して和解を図るように努めることもあった。




二丈岳の戦い

永享3(1431)年4月末は、大内盛見が糟屋郡・立花城の大友持直を攻撃した。
これに敗走した大友持直は、怡土郡・二丈岳城の草野次郎少輔を頼って、
二丈岳の麓、萩ノ原に布陣し、追討の大内氏の軍勢を迎え討つことになる。
西に大友勢を追う大内の軍勢は、高祖城・原田種泰らの助勢を得て、
対する大友勢は、少弐満貞、菊池兼朝、草野次郎少輔それに波多三河守の援兵が加わり、
両軍1万の激突となったという。
戦場は深江の町にまで及び、正覚寺をはじめ町のほとんどは灰燼と化した。
この戦いで、有勢にあったはずの主将・大内盛見がまさかの戦死。
志摩の郡士、牟田孫右衛門に討ち取られたという。
盛見の遺骸は糟屋郡酒殿村の徳鳳山泉蔵寺に葬られた。





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二丈岳の戦いで一度は焼失したという正覚寺




淀川と千人塚

二丈岳での戦いは、その合戦事実を示すようにいくつかの地名と遺構を残している。
二丈岳すぐ麓の「淀川」という地名は、戦死者の血で川が淀んだことに由来しているという。
また、大友勢が布陣したという場所には「陣ノ尾」という地名を残し、
同地には戦死者を祀る千人塚として、現在まで石塔婆が立っている。




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二丈岳の戦いの戦死者を祀る千人塚は、鎮懐石八幡宮の裏手にひっそりとある

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小さな清流、淀川は約600年前の合戦時、士卒の鮮血で川が淀んだという。下は淀川に生息するムギツク




博多祇園山笠での少弐・原田勢の乱闘

現在まで750年を超える歴史を持つ博多祇園山笠は、京都の祇園祭がその起源とされるが、
この年は壮大な飾り山12艘、見物人も幾千万という前例にない大規模なものになったという。
そして、この山笠の最中に記録に残る乱闘事件が発生した。

永享4(1432)年5月下旬、秋月満種に謀反の意があるとして、少弐氏は秋月城に軍勢を出向した。
これに対して、秋月側は高祖城・原田種泰に救援を求める急使を走らせた。
果たして、大友氏の仲介によって両氏は和解し、少弐・原田の両勢は引き上げた。
その帰陣に際して、博多に留まって祇園山笠を見物していた両勢の一部が諍いをはじめた。
これが刀を抜いての斬り合いに発展。
一般の見物客が散り散りに逃げ惑う中、両勢合わせて100人以上の死傷者が出たという。




二丈岳の戦い後の大内氏と九州

盛見の亡き後、家督を継いだのは甥の大内持世(おおうち もちよ)である。
永享5(1433)年3月、大友・少弐討伐の御教書を賜った持世は、大軍を投入して少弐勢を圧倒。
筑前秋月に少弐満貞を討って、二丈岳における敗戦の仇討ちを果たした。

嘉吉元(1441)年は、将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐を、幕命を受けた原田種泰らが播磨まで攻めた。
この赤松討伐に参加しなかったという理由で、
少弐教頼は、原田勢らを加えた大内教弘の大軍に追討を受けて対馬に後退した。
少弐氏を駆逐した大内教弘は、筑前肥前の敵対勢力を帰属させて、守護領国支配の体制を強固にしつつあった。
先の原田氏はもとより糸島地域の武士層のすべても大内氏の麾下についたと思われる。




応仁・文明の乱はじまる

応仁元(1467)年、足利将軍家をはじめ最有力者層の継嗣問題に端を発し、
全国的な戦国争乱の時代がはじまる。
いわゆる応仁・文明の乱は、大きく東西の二軍に分かれて、
京都を戦場の中心に11年にも及ぶ大乱となった。
郷土の原田・波多江・小金丸氏らも大内政弘に従って西軍に加勢して軍功を挙げている。
続きは次回「戦国時代の糸島について」でまとめたいと思います。




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淀川沿いにある淀川神社の境内には、見事な桜木がこれまた見事な花を咲かせていました




posted by 由比 貴資 at 23:57| Comment(0) | 糸島中世史

2019年03月31日

南北朝時代の糸島について  2019年3月

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◯ 南北朝時代の糸島について

 ・ 中世という時代区分
 ・ 鎌倉幕府の滅亡、その時九州では
 ・ 足利尊氏、九州に来る
 ・ 尊氏、上京とともに九州探題を残す
 ・ 南北朝時代はじまる
 ・ 南北朝時代はじめの九州勢力図
 ・ 糸島における南北朝の戦い1 一貴山の合戦
 ・ 少弐氏、加布里に天満宮を勧請する
 ・ 懷良親王、九州に来る
 ・ 足利直冬、九州に来る
 ・ 足利直冬、雷山に参る
 ・ 糸島における南北朝の戦い2 長野庄の合戦
 ・ 繰り広げられる動乱と南北朝の合一

(一貴山・夷巍寺仁王門/加布里・天満宮/雷山・雷神社 2019年3月撮影)




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中世という時代区分

今回の糸島中世史は、前回の鎌倉時代編に続いて、南北朝時代編です。


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鎌倉幕府の滅亡、その時九州では

蒙古襲来後、鎌倉幕府では北条氏得宗の専制政治が行われていたが、
これを支える全国の御家人たちの反感は爆発寸前であった。
なぜなら、所領の分割相続による御家人たちの生活困窮に加えて、
蒙古襲来における戦費の負担が重くのしかかり、しかも恩賞が十分に支給されなかったからである。
さらには「悪党」と呼ばれた反幕勢力の横暴による世の乱れが拍車をかけることになる。
元弘3(1333)年、こうした情勢をみた後醍醐天皇は、全国の有力武士たちに向けて倒幕の綸旨を発布した。
これに呼応して京都で挙兵した有力御家人の足利尊氏・直義兄弟らが六波羅探題を攻め落とすと、
関東では新田義貞らが鎌倉を制圧した。

この頃の九州でも、幕府に対する武士階級の不満は鬱積しており、
後醍醐天皇から届いた倒幕の綸旨に喝采を送った。
はじめに倒幕に立ち上がった肥後の豪族・菊池武時は、
九州統制のために設置された博多の鎮西探題館への攻撃を開始した。
当初菊池武時は、少弐貞経、大友貞宗と連合して総攻撃を仕掛ける予定であったが、
少弐・大友の両氏は探題攻めは時期尚早として、探題方に寝返ったため、
さしもの猛将・菊池武時は討ち死してしまう。

そのわずかふた月後である。
今こそその時と、少弐・大友氏は鎮西探題・北条英時の姪浜城に攻め込んだ。
そして、少弐貞経・頼尚親子率いる原田、秋月、三原、草野、龍造寺、千葉ら1万、
大友貞宗の陣頭指揮する戸次、臼杵、田原、佐伯ら5千の軍勢を前に、
北条英時は自刃に追い込まれて、鎮西探題は滅ぼされた。
鎌倉幕府が新田義貞らによって攻略されたのは、この三日前のことであった。




足利尊氏、九州に来る

鎌倉滅亡後、中央では後醍醐天皇による親政(建武の新政)が開始されたが、
これは武士の存在を軽視する旧弊的な朝廷中心の政治であったため、早々と武士層の不満を招くこととなる。
建武2(1335)年秋、新政から離反した足利尊氏が箱根で挙兵して官軍を破ると、勝ちに乗じて京へ進撃した。
しかし翌年(1336年)正月には、奥州から上洛した北畠顕家、楠木正成や新田義貞による
官軍の猛攻に耐えきれずに敗走する。

一旦は九州に落ち延びて勢力を立て直すことになった尊氏は、筑前芦屋で少弐頼尚と宗像大宮司に迎えられた。
この報を受けた菊池武敏は、ただちに軍を整えて、
筑後高良山から大宰府・宝満山麓にある少弐貞経の有智山城に向かった。
憎き少弐を潰すためであり、新しく源氏の棟梁になった尊氏を時機を失せず討つためである。
わずか二日の間に有智山城を陥落させた菊池軍は、尊氏・少弐頼尚軍と筑前多々良浜で激突。
勢いに乗る菊池の軍勢が2万に対して、尊氏・少弐勢の兵はわずか1千足らずであったという。
ところが、すわ戦闘開始となると菊池勢の中に寝返る者が続出して、
圧倒的不利な条件にもかかわらず、尊氏・少弐軍の逆転の大勝となった。
怡土郡・高祖城の原田種時は少弐氏の麾下にあったが、その嫡男・種宗は菊池氏に従ったため、
多々良浜の敗戦後は、高祖城には帰参できず、種宗は筑後の原田一族・原氏の養子になっている。

多々良浜に大勝し勢力を挽回した尊氏は、九州勢を加えて上京すると、
湊川の戦いでは新田義貞、楠木正成の軍を打ち破って京都を制圧した。
この時、武士的性格の強かった郷土の名主たちも尊氏方に従って奮戦したらしい。
小金丸の瀬知氏や野北の平野氏には、尊氏発給の感状が伝わる。(『糸島伝説集』)




尊氏、上京とともに九州探題を残す

再び京都を目指して東上した尊氏は、九州勢を引き連れる一方で、
一色範氏(道猷)ら足利一門の家臣を九州に残した。
その目的は、基盤の不明瞭だった九州支配の抑えとしてであり、
九州探題に就任した一色範氏は、九州の幕府方勢力を統括する立場をとるようになる。
しかしこれは、少弐氏、大友氏、島津氏、菊池氏といった
従来の九州武将たちの権益を縮小させることに直結したため、この九州探題府の設置が、
その後九州南北朝の内乱をさらに複雑にして激化させることになるのである。




南北朝時代はじまる

武家社会を再興すべく新政を崩壊させることに成功した尊氏は、
後醍醐天皇を退位させると、新たに光明天皇を擁立して京都に室町幕府を開いた。
大和国吉野(奈良)の山中に逃れた後醍醐天皇は、自らの朝廷の正統性を訴えたため、
同時期に二人の天皇による二つの朝廷、二つの元号が並立する波乱の時代に突入する。
これより、全国の守護や国人(武士階級)たちはそれぞれの利害関係から、
南朝あるいは北朝の勢力に味方して、激しい戦闘を各地で繰り広げることになった。




南北朝時代はじめの九州勢力図

南北朝時代初期の九州のおおまかな勢力図は、以下の通りである。
南朝方は菊池氏や阿蘇氏など肥後の豪族を中心とする勢力、
対して北朝方には、九州探題の一色範氏をはじめ、
少弐氏や大友氏、島津氏などの源家恩顧の守護大名を中心とする幕府方勢力である。


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糸島における南北朝の戦い1 一貴山の合戦

南北朝の動乱初期、糸島にも戦乱の跡は残っている。
暦応3(1340)年3月、南朝方の新田義貞の一族である新田近江禅師は、
怡土・志摩郡内の武士たちに南朝方への参戦を呼びかけた。
これに同調した深江の地頭・深江孫次郎種長は、
深江・片山一帯を焼き払って武威を示すと、一貴山夷巍寺に陣を敷いた。
対する北朝方は、志登の松浦党・中村弥五郎勇と荻浦の由比重富正高の軍勢がただちに参じて鎮定されたが、
まさにこの戦火にあって、十二もの僧坊を構える夷巍寺は仁王門だけを残して焼失してしまったという。
この軍功により、多々良浜での活躍もあった松浦党・中村氏には九州探題・一色範氏から賞された。
また、由比重富氏には筑前国守護・少弐頼尚より感状が発給されている。


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夷巍寺の仁王門は、長細い山間部の一貴山の入口となっている

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仁王門の左右に構える仁王像。厳しい表情だが、よく見ると平板な胴に大きな頭で愛嬌がある




少弐氏、加布里に天満宮を勧請する

一貴山の合戦のあった年には、加布里に天満宮(加布里神社)が建立された。
神社縁起によれば、祭神は菅原道眞公で、後村上天皇の皇国元(1340)年、
大宰少弐政家が大宰府より分霊を勧請したという。
少弐系図には「少弐政家」なる人物は存在しないため、少弐頼尚の誤りと思われる。
この頃より原田庄には、荘内警護のため、少弐一族の少弐頼貞(筑後頼貞)が常駐するようになったらしく、
天満宮のすぐ西側の山(城山)に築かれた加布里城を拠点にしていたといわれている。




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加布里山笠で有名な天満宮は、加布里神社ともいう

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少弐頼貞が常駐した加布里城があったのは、お宮の向かって右後方の山頂である




懷良親王、九州に来る

大和国吉野で南朝政権を打ち立てた後醍醐天皇は、
南朝勢力を全国に築こうとして、自分の皇子たちを各地に派遣した。
九州には、八子の懐良親王(かねよし しんのう)を征西大将軍に任命して下向させたが、
幼かった親王は、数年間は伊予国忽那島に留まり、貞和4(1348)年に肥後国隈府に入った。
これを同地の菊池氏や阿蘇氏が迎えたので、
以降は征西大将軍宮として「宮方」とも呼ばれる九州南朝方の中心勢力となった。




足利直冬、九州に来る

懷良親王が肥後に入った翌年(1349年)には、
尊氏の子・足利直冬が同じく肥後の河尻津より九州に上陸した。

足利直冬(あしかが ただふゆ)という人は、尊氏の長男とされながら、
妾腹の子であったために、父親に認知されない存在であった。
尊氏の弟・足利直義の養子になってからは、
直義の推挙により長門探題に任命されて、備後国鞆(とも)の地に入部した。
ところが、幕府の二頭政治にあった尊氏・直義兄弟が対立したため(観応の擾乱)、
直冬は反尊氏派として討伐の対象となり、九州へ逃げ落ちることになる。
左兵衛佐を官途にする直冬は「佐殿(すけどの)」と呼ばれていたことから、
直冬与党を「佐殿方」という。

肥後を拠点に、足利将軍の権威を利用して周辺の国人衆を取り込んだ直冬は、
肥前・筑前へと勢力を拡大し、大宰府の少弐頼尚と盟を結んだ。
この結果、九州は征西将軍宮・懷良親王を擁する南朝方(宮方)の菊池・阿蘇氏、
北朝方には幕府方の九州探題・一色範氏、それから分裂する形で、
直冬・少弐頼尚の佐殿方が三方に鼎立する構図となる。
時の郷土では、少弐氏との関係から高祖城・原田氏や先の松浦党・中村氏や由比重富氏、
飯盛細峯城衆・得永氏も佐殿方を表明し、各地を転戦するようになった。




足利直冬、雷山に参る

観応2(1351)年2月、対立していた尊氏・直義兄弟が和議を結ぶと、
直義の求めによって、九州の直冬は鎮西探題に任命された。
これで直冬の九州における地位は、九州探題・一色範氏と逆転することになった。
一時的とはいえ連戦から解放されることになった直冬は、同年7月、怡土郡の雷神社を訪れている。
日照りで苦しむ荘内の人々の存在を知って、降雨祈願をするためであった。
祈願後にはたちまち霊験があったとして、同社には一首の和歌を捧げている。


  世の末と いかで思わん 鳴る神の またあらたなる 天が下かな    左兵衛佐源朝臣直冬




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往古女人の参拝を許さなかった雷神社の境内には、千年杉が2本立っている




糸島における南北朝の戦い2 長野庄の合戦

文和元(1352)年2月、中央では再び尊氏・直義兄弟の間に不和が生じ、
尊氏方に直義が謀殺されると、九州の直冬はいよいよ窮地に追い込まれる。
直冬討伐令を正式に下した尊氏は、一色範氏ら幕府方に援軍を送り、
さらには南朝宮方との同盟を成功させた。
その年の10月には、怡土郡長野庄に幕府(一色探題)方の肥前松浦党・草野英永と佐志勤らが攻め入ったため、
佐殿(少弐)方の由比重富正雄と飯盛細峯城衆・得永実種の軍勢がこれらを迎え討っている。
それより遡る貞和5(1349)年にも、同郡原田庄で佐殿方が幕府方(一色探題)の軍勢から攻撃を受けている。
当時の怡土志摩地域も動乱の戦塵にまみれること例にもれなかった。


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繰り広げられる動乱と南北朝の合一

文和元(1352)年11月、九州における直冬の最後の戦いは、
直冬・少弐頼尚の本拠である大宰府での激突となった。
南朝宮方と協調した一色範氏ら幕府方の猛攻を受けて、大宰府浦城は陥落し、
同月直冬は九州から長門国へ脱出した。

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これに及んで、苦境に立たされた少弐頼尚は菊池武光に通じ、南朝宮方の助勢を得ることに成功する。
文和2(1353)年2月少弐・菊池の連合軍は、針摺原で一色父子を破って長門国へ敗走させた。

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その後、少弐頼尚は幕府方に復帰して宮方菊池勢との抗争を再開したが、
延文4(1359)年、両軍の総力戦となった大保原の合戦で大敗を喫したため、
大宰府も宮方に奪われて、九州ではしばらく南朝方・征西将軍宮の全盛期が続くことになる。

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応安3(1370)年2月、尊氏の孫・足利義満の代になると、
南朝天下となっていた九州を平定するため、今川貞世(今川了俊)を九州探題に任命し下向させた。
了俊は、反南朝方の国人たちを自陣営に巧みに取り込み、豊後、肥前、豊前の三方から大宰府を攻めて、
懐良親王、菊池武政以下を筑後高良山に、さらに肥後隈府城まで後退させた。
高祖城・原田氏や波多江氏、小金丸氏ら原田一族も南朝方に与していたが、
了俊の圧倒的戦略力に動揺が走り、幕府方に転向する者が少なくなかったようである。

天授元(1375)年、順調であった了俊の九州経営に暗雲が立ち込める。
肥後国水島で陣を敷いた了俊は、合戦を前に、豊後の大友親世、筑前の少弐冬資、大隅の島津氏久ら、
いわゆる九州守護三人衆に来会を呼びかけた。
了俊に対抗する少弐冬資だけは参陣を拒否したが、島津氏久の仲介で参じることになった。
ところが、冬資はその陣中で了俊に謀殺されてしまうのである。
これにより島津氏久は了俊から離反し、また大友親世も探題支援を停止した。

明徳3(1392)年10月、南朝の後亀山天皇が京都に還御し、南北朝の合一となった。
この年、了俊は九州南朝方を帰順させて九州を平定したが、特に水島の変以降は、
九州の有力守護層の協調を得ることができず、応永2(1395)年、了俊は九州探題を解任され京都に召喚された。
これより、九州進出を図る周防の大内氏と、少弐・大友氏の激突の時代を迎えることになる。




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加布里の天満宮から望む景色




posted by 由比 貴資 at 20:48| Comment(0) | 糸島中世史