2026年04月29日

尻振り歌い踊る妻たち、これは狐憑きか、それとも…?  ー嘉永三年五月の『冨永日記』よりー

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◯ 尻振り歌い踊る妻たち、これは狐憑きか、それとも…?


江戸時代後期から幕末にかけて、現在の福岡市西区周船寺に、ひとりの熱心な記録者がいた。

当時の筑前国怡土郡周船寺村にあった商家「加勢儀屋(かせぎや)」の次男、冨永延蔵(とみなが えんぞう)である。



冨永家は、酒造業と質屋を営む富商である一方、多数の小作地を所持する地主でもあった。

家督を継ぐべき兄が病弱のため、その重責は次男「延蔵」にのしかかっていた。

数人の下男(従業員)を指揮し、家業の運営と農業経営を切り盛りするかたわらで、彼は多忙の合間をぬって筆を走らせつづけた。

彼が克明に書き留めていた記録こそ、当時の農村社会の実像を今に伝える貴重な史料『冨永日記』である。

日記には、作物の播種や手入れといった農作業の記録のほか、村祭りや相撲といった娯楽、さらには刃傷沙汰や盗難、強盗への対応など、村周辺の出来事が鮮やかに描かれている。



嘉永3(1850)年5月。

その初日の日記には、農繁期に忙殺される延蔵の悲鳴のような独白が記されている。



  此頃、農行仕事又極大繁多ニて、心躰大ニ労れ、苦敷事甚し

  アラキツヤナ、アラキツヤナ、アラキツヤナ、アラキツヤナ




初夏の訪れとともに多忙をきわめ、「アラキツヤナ(ああ、しんどい)」と、ため息をつく延蔵。

しかし、そんな彼の疲れを吹き飛ばすかのように、村では平穏な日常を揺るがす事件が立てつづけに発生する。

まず日記の冒頭を飾るのは、村の女性たちが次々と乱心する怪異だ。

とつぜん陽気に小歌を歌い出し、寝床の上で尻振り踊りをはじめるという、滑稽ながらも不気味な流行病。

延蔵はこれを「古今未曾有」の出来事として驚き、狐の仕業か神仏の祟りかと疑って動揺する人々の姿を記録している。

このほか、夜道を往く魚商人を狙った物騒な強盗事件など、など。

本記事では、延蔵の筆致(表現・論理展開)をできるだけ尊重しつつ、その一部始終を現代語訳で紹介したい。

全体の構成は次のとおりである。


 ・ 狂い踊り歌う妻たち
 ・ 鯛商人を襲った強盗事件
 ・ 現場での暴行流血事件、憎むべきは……
 ・ 酒場での執拗な借金取り立てが招いた夫婦の悲劇
 ・ 今回のまとめ


(周船寺駅 他 2025年4月撮影)




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狂い踊り歌う妻たち


初日  大ニ曇天気 又風一向吹ず 


先月、私が英彦山参りで留守にしていた折の話である。

当地の佐良屋友七殿の妻が急に気分を悪くして横になっていたという。

無言のまま、ついに悶絶する事態となったため、家族は慌てて抱きかかえ、必死に声をかけて介抱した。

ようやく目を見開いた彼女は、弱々しい声で「アラ苦しや」とだけ漏らす。



この騒ぎを聞きつけ、近隣の人々も集まってきた。

医師を呼びに走る者、彼女の親類へ急報を伝える者など、現場はにわかに慌ただしくなる。

これは七ツ下り(16時頃)のことである。



ところが戌ノ刻(20時頃)になると、病人が急に小歌などを歌い出し、ひどく陽気な様子に転じた。

心配していた人々は拍子抜けし、普段は真面目な彼女がなぜ歌など歌うのかと、一同驚き呆れるばかり。

この狂態はその後もしばらく止まず、浄瑠璃や流行り歌を歌い上げるなど、昼夜を問わず大賑わいになったらしい。

夫の友七殿もただ当惑するばかりである。

最近では少し正気に戻る兆しもみえるが、時おり乱心しては様々な虚言を口にする。

今日(5月1日)に至るまでの14、15日間、このような状態がつづいているという。



これはまた別の話である。

去る4月27日の夜、提灯屋茂助の妻も前触れなく気分を害した。

彼女の場合は友七殿の妻のような経過をたどらず、ふさぎ込んでいたかと思うと、急に狂い出したらしい。

浄瑠璃や長歌を披露するにおよばず、あろうことか寝床の上に仁王立ちし、尻振り踊りをはじめたのである。

これを目にした者は、いかなる堅物であっても笑わずにはいられなかったという。

友七殿の妻といい、この提灯屋の妻といい、古今未曾有の病状であり、「不思議」という言葉だけでは言い尽くせない。

ある者が「これは狐の仕業ではないか」と左門夫という人物に尋ねた。

だが彼はこう答えた。



  いやいや、狐ではあるまい

  狐の仕業であれば、私が年に数度、豊前へ祈祷に赴く際に判別がつくはずだ

  これらの病人に対して祈祷を頼まれても、一向に狐の気配はない

  これはすべて水神や荒神の祟りである



今もなお、これらの病の本態は不明である。

この奇妙な流行病を恐れ、村中の女性たちは戦々恐々としている。

日頃は不信心な者までもが、朝夕に神仏へ手を合わせるようになった。

両家で起きたこの異様な病状に、人々はただ疑念と驚きを深めるばかりである。




鯛商人を襲った強盗事件


六日  天気宜 


去る節句の前日、5月4日の夕刻のことである。

志摩郡西浦村の肴(魚)商人が、鯛(たい)一荷を担ぎ、夜を徹して姪浜を目指していた。

今宿を通りかかる頃にはすでに亥ノ刻(22時)を過ぎ、人家の多くは戸を固く閉ざし、灯火のもれる家も少ない。

鯛商人は剛毅な気性の持ち主であり、夜道にも臆することなく歩みを進める。



しかし、長垂山のもの寂しさはひとしおで、松を吹き抜ける風の音以外に物音ひとつしない。

心細い道中、薬水と生の松原の間にある「小浜」という場所に差しかかった時のことである。

鬱蒼と茂る樹木の間から、いきなり頬被り(顔隠し)をした大男3人が出てきた。

男たちは鯛商人の行く手を阻み、積んでいる鯛をすべて置いて去れ、とおどす。

鯛商人が抗おうとすれば、男たちは「さもなくば目に物見せん」と、古脇差をガタつかせて威嚇してくる。

これに肝を潰した鯛商人は、黙って身を引いたものの、3人は執拗に追いかけてきた。



時は子ノ下刻(深夜1時)を回る頃である。

鯛商人はあらん限りの声を上げて助けを求めたが、人通りの絶えた夜道に反応する者はいない。

ついに鯛商人は3人に捕らえられ、手取り足取りの暴行を加えられた。

なす術もなく、商人はその場に打ち倒されるしかない。

それから男たちは鯛10枚ほどを各々両手に下げ、何処ともなく闇のなかへ消え去った。



鯛商人はようやくの思いで起き上がったものの、ほとんど半死半生である。

生の松原の茶屋まで這うようにしてたどり着き、茶屋亭主を叩き起こして事の次第を訴えた。

驚いた亭主は家中の者たちを起こし、7、8人を現場へと急行させる。



そこには目籠が四方に散乱し、小ぶりの鯛が5枚ほど残されているだけ。

一同は手分けをして山中を捜索したが、ついに賊の行方を掴むことはできなかったという。

鯛商人の受けた不慮の災難は、ただちに使いを出して鯛商人の地元、西浦に伝えられた。



翌朝、同浦より役人ら10名ほどが出張ってくると、正式に役所に被害届けが出されている。

はたしてこの一件、いかなる落着になるだろうか。




現場での暴行流血事件、憎むべきは……


廿二日  朝の間天気 後雨降ル


先日、風呂屋(銭湯)にて唐人町の者が目撃したという大ゲンカの話を聞いた。

あまりに衝撃的で、興味深い内容であったため、ここに記す。



当月5日、志摩郡辺田村の新開普請場(干拓作業場)において、福岡谷町の「何エ門」という者と、福岡唐人町の「石屋某」との間で、舟の荷受けをめぐる諍いが生じた。

場所は辺田村にある酒屋の西隣であった。

当初は些細ないい争いであったが、次第に険悪な空気が漂いはじめる。

すると、唐人町の石屋が、背後にあった重さ40斤(約24kg)余り、長さ5尺(約1.5m)という巨大な鉄製のテコ棒をひっ掴んだのである。



そのまま石屋が大喝一声、テコ棒を振り下ろすと、谷町の者の頭を直撃した。

谷町の者はひとたまりもなく仰向けに倒れたが、石屋はその上にのし掛かり、さらに追撃を加えようとする狂乱ぶり。

周囲の者たちがようやくの思いで石屋を抑え込み、怪我人の容態を確認したところ、その惨状は目も当てられぬものであった。

頭部の左側には、5、6寸(約15〜18cm)にわたって鉄棒の痕が深く刻まれ、頭皮が毛髪ごと頭蓋の内側へ打ち込まれている。

周囲の人々は驚愕し、すぐに医者を呼べと大騒動になった。

負傷者は屈強な男であったが、それでも短時間の間に3度も意識を失うという瀕死の状態に陥った。



本来であれば、ただちに医者を呼び、早急に怪我人の故郷へ急報すべき事態である。

ところが、現場を差配する元方(現場責任者)は、あろうことか一向に音沙汰を寄越さず、4、5日もの間、放置を決め込んだ。

この不誠実な対応に、怪我人の宿元である谷町の家族はもちろん、町内の人々も大激怒。



  憎きは元方の対応よ

  即刻注進すべきを、数日も放置するとは奇怪千万である

  もし死んでいたらどうするつもりだったのか

  死骸だけを送り届けるつもりだったのか

  どのように考えても道理が通らぬ



と、町中で申し合わせるに至った。

人々の怒りの矛先は、ケンカの当事者よりも、むしろ不義理を働いた元方に向けられたのである。

谷町の若者20、30人が元方のもとへ押し寄せ、「この不始末、どう落とし前をつけるのか」と激しくつめ寄った。

罵声を浴びせられた元方の面々は、一言も返せず、その様子に谷町の者たちはただ閉口するばかりであったという。



これほどの大怪我は古今未曾有のこと。

並の人間であれば即死していてもおかしくないところを、本人の頑健さゆえに、かろうじて命を繋いでいる状態であった。

その後、命に別状はないとの見立てが立ち、あんだ(担架)に乗せられて宿元へ戻り、養生に励むこととなった。

現在は御殿医(お抱え医師)による入念な治療が行われているが、その治療費や諸経費はすべて、ケンカ相手である唐人町の石屋が負担することになったようだ。

その額は、現時点ですでに20両余りに達している。

完全に快復するまでには、さらに莫大な費用がかかることは明白である。

恐敷、恐敷、恐敷、つつしむべし、つつしむべし。

大略早々かくのごとし。




酒場での執拗な借金取り立てが招いた夫婦の悲劇


廿六日  時々雨<雨五歩 天気五歩>


暮六ツ(18時)頃、私は五右衛門殿と連れ立って帰宅した。

その道中のことである。

村の橋のあたりから東の方を見渡すと、何やら騒動が起きているらしく、老若男女が騒ぎ立っている。

いったい何事かと不審に思いながら近づいたところ、川端家の奥方が走り出てきた。



彼女は焦った様子で、五右衛門殿に気づくと懇願する。

うちの亭主(川端利右衛門)が酒屋で暴れまわっているので、どうか押しなだめて連れ帰ってほしい、と。

これを聞いた我々は現場へ急行した。

すると庄屋の馬屋の前で、荒れに荒れている利右衛門を、大勢の人が手取り足取りして連行するところであった。

これを見た五右衛門殿は、その人だかりに割って入る。

私は酒屋の様子が心配になり、外の決着を見届けぬまま内へ駆け込んだ次第である。

すると、泉ノ三平の妻が機織場の下に倒れ伏しており、三平自らが薬を与えるなどして介抱している。



これは何事か。

驚いた私が酒場を通って台所の方へ行こうとした際、鉢合わせした半助に事の詳細を尋ねた。

半助の語った内容はだいたい次のとおりである。



  今日七ツ下り(16時)頃、三平が角打ち(立ち飲み)に来たところ、利右衛門に会った

  いつものことながら、今日の利右衛門はひどく酔っている様子である

  どうした風の吹き回しか利右衛門は、三平に向かって「4年前の酒代が7、8匁残っているので、今すぐここで支払え」と、しつこく催促をはじめた



  もともと三平は自己都合のいい訳などできぬお人好しである

  ただ少し笑って「あと4、5日待ってくれ、そのうちに勘定を済ませるから」と相手にしなかった

  すると利右衛門はいよいよ図に乗り、生まれつきの短気と狭量さから、散々悪口を浴びせた挙句に「別の酒代5匁余りも合わせて支払え」などと、理屈の通らない無理難題を押し付けてくる

  三平もついに立腹した様子で「品物を持ってきて質に入れ、支払いをしてやる」と、自宅に向かって走り出した

  しばらくして三平は小櫃(こびつ)を担いで戻り、これを質に入れようといい張る

  これをみた店の旦那が「そんなに腹を立てて払うようなことではない。わずか数匁のことだ」となだめた



  そこへ、三平の妻が門口から入ってきた

  夫が櫃(ひつ)を担いで走り去ったのを不安に思い、息を切らして後を追いかけてきたのである

  利右衛門は三平に「早く払え、早く早く」と激しく急き立てている

  さすがの三平も怒りが頂点に達したのか、憤怒に顔面を赤く染めて、なんと(追いかけてきた)自分の妻に向かい、一突きに押し倒してしまったのである



  三平は「わが女房の身で、何しに来たのだ!」と怒鳴り散らした

  これは本来、利右衛門に対する怒りだった

  しかし、相手は50歳を過ぎた老人とはいえ力もある

  直接掴みかかるわけにもいかないと考えた小心者の三平は、自分の妻を代わりに突き飛ばしたのである

  不運にも三平の妻は、突き倒された拍子に後頭部を強く打ち、気を失ってしまった

  にもかかわらず、利右衛門も三平もそれに気づかない

  利右衛門は烈風のような勢いで催促をつづけ、三平は倒れた妻を放置し、めったやたらといい返している

  三平の妻が一向に起き上がらないのを不審に思った我々が近寄ると、すでに事切れたようにぐったりとしているではないか

  周囲の薬や水を求める声にようやく三平も正気に返り、倒れた妻に水を吹き込んだり薬を与えたりし出した



  この混乱のなか、なおも利右衛門は催促を繰り返している

  これに激怒したのは、重助殿である

  彼は、利右衛門に向かって「この状況で何をいっているのだ、早く立ち去れ!」と一喝した

  利右衛門もまた腹を立てて悪口を返すと、重助殿は「わずか数匁の、しかも4年前の酒代をそこまで酷く取り立てるなら、こちらの去年の酒代200匁も早く精算しろ!」といい放つ

  これに利右衛門はいよいよ怒り狂ったが、近隣の人々もこれ以上は放置できないと、皆で飛びかかって彼を門の外へ引きずり出した

  先ほどまで危うかった三平の妻も、ようよう今、気を取り戻したところだ



これを聞いて、私は少し安堵する。

私が台所へ行くと、まだ例の小櫃などが置かれており、騒動の物々しさが察せられた。

しかし、三平の妻が命を落とさなかったのは幸いであった。

もし死んでいたらどうなっていたことか、想像するだけで恐ろしい。

ひとまずその詳細を三歩(三割)だけ記し、残りの七歩(七割)は腹に収めておくことにする。

もっとも、これは私の留守中の出来事であり、すべてを実際に目にしたわけではない。

とはいっても、目の当たりにした騒動後のありさまからして、決して偽りではないはずである。




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今回のまとめ


周船寺加勢儀屋の次男「冨永延蔵」が記した『冨永日記』。

その嘉永3(1850)年5月の記録には、平穏な農村社会の裏側でうごめく人間の業や、不可解な現象に対する当時の切実な眼差しが凝縮されている。

最初に、村の女性たちが次々と乱心し、陽気に歌い踊り出すという「奇妙な流行病」の記録。

原因を狐の仕業や水神・荒神の祟りに求める人々の姿からは、近代医学以前の時代において、人智を超えた災厄がどれほど身近な脅威であったかが伝わってくる。(1日分)



また、夜道で鯛売りが襲われた強盗事件や、干拓現場での些細な諍いから起きた凄惨な大ゲンカ。

これらは、のどかな海沿いの風景のすぐ裏側に、衝動的な暴力によって一瞬にして平穏が破られる「危うさ」が常に潜んでいた現実を突きつけてくる。(6日・22日分)



なかでも、酔っ払いの取り立てに端を発した酒場の乱心騒動は、人間の弱さゆえの、理性が崩壊する過程の記録ともいえないだろうか。

酔っ払いの理不尽ないいがかりが、お人好しな男の理性を失わせ、危うく自らの妻を死の淵に追いやる。

この連鎖的な悲劇の記録は、極限状態に置かれた人間の心理を浮き彫りにしている。(26日分)



日記の最後、延蔵は凄惨な現場を目の当たりにしながらも、「死なずに済んだのは幸いであった」と安堵し、あまりの衝撃に詳細を記すことを躊躇いつつ筆を置いている。

最後の「三歩を記して七歩を心中に収める」という延蔵の言葉。

そこには、身近で起きた悲劇を前にした戸惑いと、それでもなお、眼前の真実を「偽りにてあるべからず」と書き残そうとする、記録者としての誠実な矜持が宿っているのである。



  ・冨永延蔵、コマネズミを飼う ー嘉永三(1850)年歳末の『冨永日記』よりー

  ・冨永延蔵、フクロウを飼う ー安政三(1856)年初夏の『冨永日記』よりー

  ・幕末時代の公開処刑 ー近世の周船寺『冨永日記』よりー

  ・幕末時代のある商家の7月 ー近世の周船寺『冨永日記』よりー

  ・幕末時代のある商家の正月 ー近世の周船寺『冨永日記』よりー

  ・近世糸島のできごと ー安政3年の郷土ー

  ・近世糸島のできごと ー弘化2年の郷土ー

  ・近世糸島の感染症 ー痘瘡を中心にー

  ・近世糸島のできごと ー郷土と心温まる話ー

  ・近世糸島のできごと ー郷土と珍事ー

  ・近世糸島のできごと ー事件と藩領ー

  ・近世糸島のできごと ー事件と内済ー

  ・近世糸島のできごと ー臼杵氏子孫の来訪と原田家の法事ー

  ・近世糸島のできごと ー幕末の郷土と事件ー

  ・近世糸島のできごと ー昔の糸島の男女事情を垣間見るー




参考:「【文献解題】冨永延蔵日記」由比章祐 記(『福岡地方史談話会 会報 第19号』1980年)
   『嘉永三年 冨永日記』由比章祐 解読(未刊本1984年)

posted by 由比 貴資 at 21:20| Comment(0) | 幕末の周船寺冨永日記

2026年03月28日

中世怡土荘の在地領主「三雲氏」のこと ー抵抗者から執行者へ、鎌倉末期〜南北朝期の文書にみる三雲氏の変遷ー

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◯ 中世怡土荘の在地領主「三雲氏」のこと


糸島市南部の「三雲(みくも)」の一帯は、 古代伊都国の中心地として栄えた地である。

王墓から出土した数々の豪華な副葬品は、往時の繁栄を今に伝えている。

この地は古代末期より大荘園「怡土荘(いとのしょう)」の中心部に位置しており、中世においても同荘園を構成する重要な生産拠点であった。



この地を本貫(発祥地)としたと考えられる「三雲氏」が最初に史料上に姿をあらわすのは、鎌倉時代末期のことである。

とはいえ、現在確認できる三雲氏の直接的な関連史料はわずか4点に過ぎない。

しかし、これらの断片的な記録を読み解くことで、当時の在地社会において展開されていた土地をめぐる訴訟の実態、そして三雲氏について知ることが可能となる。



本記事では、鎌倉末期から南北朝期にわたる4通の文書を軸に、「三雲孫三郎入道法円」と「三雲五郎入道道法」、三雲氏2代の動向に光をあてる。

当初、惣地頭の支配に抗う「抵抗者」であった彼らが、いかにして幕府機関の使節を担うなど公的な「執行者」へとその立ち位置を変容させていったのか。

土地訴訟等の具体的な事象を通じ、激動の時代に確かに存在していた在地領主「三雲氏」に迫ってみたい。

本記事の構成は次のとおりである。


 ・ 鎌倉末期、惣地頭に抵抗する名主「三雲孫三郎入道法円」
 ・ 尼光阿との相論にみる三雲氏の武士的性格
 ・ 使節「三雲五郎入道道法」の台頭
 ・ 雑訴決断所下文と証人「三雲五郎入道道法」
 ・ 今回のまとめ


(三雲南小路遺跡/築山古墳・端山古墳/細石神社 他 2026年3月撮影)




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鎌倉末期、惣地頭に抵抗する名主「三雲孫三郎入道法円」


三雲は、瑞梅寺川と雷山川に挟まれた怡土平野の中央に位置する。

この地には糸島最大の遺跡群が形成されており、古代の王都「伊都国(いとこく)」の中心地であった。

その事実を裏付けるように、「三雲南小路遺跡」や「井原鑓溝遺跡」、曽根丘陵の「平原遺跡」など、約2千年前の弥生時代の王墓が次々と発掘されている。

これらの遺跡からは、王の権威を象徴する絢爛豪華な副葬品が次々と出土した。

その歴史はさらに古く、弥生早期には朝鮮半島に由来する大型ドルメン「石ヶ崎支石墓」などが築かれ、のちの古墳時代には平野最大の前方後円墳「端山古墳」などの古墳群も点在する。

これらの遺構は、三雲の地が古代の長きにわたり、大陸交渉の最前線として、また地域の中枢として繁栄しつづけたことを物語っている。(『伊都国遺跡ガイドブック』)



三雲の地名は、かつてこの地にあった大寺「興雲庵(こううんあん)」の池から、三条の紫雲が立ちのぼったことに由来するという。

名字としての「三雲」が史料に登場するのは、鎌倉時代の終わり。

嘉元3(1305)年8月、鎮西探題から発給された「鎮西下知状(大友文書)」である。



当時の糸島地方には、平安時代以来の皇室領である大荘園「怡土荘(いとのしょう)」が広がっていた。

荘園内は「名(みょう)」と呼ばれる徴税単位に分けられており、その実務管理を担ったのが「名主(みょうしゅ)」である。

彼らは自ら農業を営みつつ、名内の農民から年貢や公事を徴収し、荘園領主(預所)へ納める役割を課せられていた。



鎌倉時代に入ると、怡土荘の支配権は皇室から幕府御家人の「地頭(じとう)」へと移り変わる。

元寇で少弐氏とともに総大将をつとめた豊後国守護「大友頼泰」は、その恩賞として怡土荘のうち「志摩郡三百町惣地頭職」を受領。

これにより志摩郡の大部分は大友氏伝領の地となり、現地の名主らもその統制下に置かれることとなった。



しかし、大友氏による志摩郡の経営は、長きにわたる不振に直面する。

名主たちが約20年もの間、年貢の納入拒否(年貢抑留・公事対捍)を貫いたためである。

この事態を憂慮した地頭代(代官)の「寂念」は、博多の幕府機関「鎮西探題」の北条政顕に対し、名主たちを提訴。

訴えられた名主は20名を超え、鎮西探題からは個別に応答書である「請文(うけぶみ)」の提出が命じられた。

そのなかに、「師吉名(もろよしみょう)」の名主として「三雲孫三郎入道法円(みくものまごさぶろうにゅうどう ほうえん)」の名が確認できる。

当時の様子を伝える以下の文書は、惣地頭大友氏がいかに現地支配に苦労していたかを示す一級史料である。



  【『鎌倉遺文』22294号文書(鎮西下知状)】

   筑前國怡土庄友永方地頭大友左近大夫将監貞親代寂念申、

   當庄名主等、抑留年貢、對捍公事由事、

  右、如寂念訴状者、友永方者、爲蒙古合戰勲功賞、

  大友兵庫入道<貞親祖父>拝領畢、而名主等對捍年貢、抑留公事之条、

  招罪科歟、任員數、可被究済<云々>、仍自去正安四年正月廿九日、

  仰使節野芥次郎左衛門入道々蓮・白水五郎入道生願等、

  三ヶ度被尋下畢、爰名主等或捧請文、或不参之間、依不事行、

  仰各別使節草野次郎入道円種・山田中内政盛等、

  重自去々年<嘉元元>十月廿三日至今年二月廿三日、

  兩度被相觸之處、円種等執進面々請文畢、

  所謂、如師吉名々主三雲孫三郎入道法円、三月廿一日・六月五日・同月十六日・

  十一月晦日・三月四日<不記年号>、請文等者、或進代官之由載之、

  或不抑留年貢之上者、被定年紀、可遂結解<云々>、

  ・・・・・(後略)・・・・・

   嘉元三年八月二日
                上總介平朝臣(花押)


  ※<>内は小字表記



地頭側の主張によれば、当荘は元寇の勲功として祖父(大友頼泰)が拝領した正当な領地であるという。

それにもかかわらず名主らが年貢を抑留するのは「罪科」に値し、未進分は徹底的に「究済(徴収)」すべきであると、鎮西探題に強く求めている。



これを受け、鎮西探題は正安4(1302)年正月29日より、使節の野芥・白水両氏らに命じ、3度にわたって名主たちに問い質させている。

しかし、名主側はある者は「捧請文(請文を提出)」し、ある者は「不参(出頭拒否)」するなどして解決を阻んだ。

そこで、格別の使節である「草野次郎入道円種」と「山田中内政盛」らを派遣。

重ねて一昨年(1303年)10月23日から今年(1305年)2月23日に至るまで、彼らによる2度にわたる通告を経てようやく請文を回収できたというのである。

これらの請文からは、名主たちの老獪な抵抗がうかがえる。



例えば「三雲孫三郎入道法円」は、計5回にわたる請文のなかで「進代官之由(代官に納入済みである)」と主張したかと思えば、「不抑留年貢之上者、被定年紀、可遂結解(抑留はしていないので期限を定めて精算する)」と述べるなど、回答を二転三転させて時間稼ぎを図っている。

当時の地頭と名主の間で繰り広げられていた駆け引きの様相が読み取れるのである。

また、名主のなかには地頭側から名指しで激しく非難される者もいた。

稲富・泊の両氏がそれで、惣地頭に対して「奸謀(悪だくみ)」を企て、「悪口(不実の誹謗)」を吐いたとし、地頭代から厳罰を求められている。



最終的に鎮西探題は名主側の非を認める裁定を下したが、こうした名主たちの抵抗は何を意味するのだろうか。

その背景には、まず元寇の戦役に従事した、特に名主など在地武士層への恩賞が不十分であったことが挙げられる。

さらに戦後も、異国警固番役や石築地(元寇防塁)の築造といった重い負担が継続的に課せられていた。

一方で、大友氏に代表される守護層は、恩賞を通じて広大な所領を手に入れていたのである。

その職権を背景に上納を迫る大友氏に対し、名主たちが不満を抱くのは当然の帰結といえる。

三雲孫三郎入道法円をはじめとする名主たちは「一味同心」して団結し、理不尽な収奪に対して組織的な抵抗を試みた。

この紛争は、中世という時代をたくましく生きた中間層が、自らの生存をかけて挑んだ闘いの一端を示している。




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尼光阿との相論にみる三雲氏の武士的性格


前回の文書から6年が経過した、鎌倉時代末の延慶4(1311)年。

再び「三雲(孫三郎)入道法円」の名が史料にあらわれる。

今津の住人「尼光阿(あまのこうあ)」と、法円の「祗候人」すなわち家来である「伊勢次郎永経(いせのじろう ながつね)」の、志登社神宮寺領の田地をめぐる訴訟の文書である。



  【『筑前国怡土荘史料』80号文書(尼光阿重申状)】

  今津住人尼光阿重言上

   三雲入道法円祗候人伊勢次郎永経、乍入流志土社神宮寺田壹町四段於質券、

   致押妨間、就訴申相番訴陳處、永経構不実、光阿号遣懇望状於法円許由、

   令備進上者、早仰法円被尋下彼状実否、

   急速被経御沙汰、欲蒙御成敗田地屋敷等事、

  副進

   一通 永経所進号光阿書状案文

  右、彼輩事、指雖非相論潤色、永経責返無理之余、爲令遁避御沙汰、

  無跡形構不実、仰主人法円可被召出之由望申之状、自由所存太背正理畢、

  雖然光阿自元如然之状お不遣之上者、被尋下之日、真偽可露顕歟、

  然早被経急速御沙汰、蒙御成敗、爲被行其身於重畳罪科、重言上如件、

   延慶四年五月 日




以上は、原告の尼光阿による「重申状(重ねての言上書)」である。

最初に登場人物を整理すると、次のようになる。



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相論の対象である「志土(志登)社神宮寺田壹町四段」の権利は、この時点までに「入流(質流れ)」していたようである。

本来、正当な「質権(証文)」を所持していたのは光阿とし、それにもかかわらず、被告の永経が不法に「押妨(占拠)」したという。

これに対し、双方の申し分を戦わせる「相番訴陳」が行れた。

だがそこで、永経は「不実(虚偽)」をでっち上げた。

永経は、光阿が主人(法円)に向けて「懇望状(泣きつきの書状)」を送ったと主張し、その「案文(控え)」を証拠として提出したのである。

これに憤慨した光阿は、ただちに法円へ書状の「実否(真偽)」を問い質すように求め、田地や屋敷を自分(光阿)のもとに取り戻す裁決を、速やかに下しほしいと訴えている。



さらに文書の後半で、光阿は永経が提出した証拠がいかに荒唐無稽であるかを重ねて主張する。

永経は自身のいい分が「無理之余」であることを追及された結果、幕府の裁決を逃れようとして根も葉もない「不実」を構えているという。

しかも、あろうことか「仰主人法円可被召出之由望申之状(主人である法円を呼び出して確認せよ)」などと申し出した。

これは「太背正理(はなはだ道理に背く)」行為である。

そもそも光阿は、当初からそのような書状など一切提出しておらず、法円に確認さえすれば、真偽は即座に「露顕」するはずだ。

ゆえに一刻も早く審理をすすめ、証拠を偽造した永経を「重畳罪科(重罪)」として厳罰に処すよう、光阿は幕府(鎮西探題)に強く求めているのである。



それから1ヵ月の延慶4(1311)年6月。

訴訟の進展がないことに焦った光阿は、次のような追い打ちの訴状を提出している。



  【『筑前国怡土荘史料』81号文書(尼光阿重申状)】

  (端裏書)
    「光阿重申、應長元六廿三」

  今津住人尼光阿謹言上

   為伊勢次郎永経、自去三月比、可続訴陳由雖申之、不遂其篇間、

   重五月雖令書上於違背状、于今不被蒙御成敗条、無術子細事、

  右、永経違背至極之上者、任所書上先度違背状、被経急速御沙汰、

  任證文道理、爲被蒙御裁許、粗言上如件、

   延慶四年六月 日




これによると、永経の「違背(不法行為)」の件について、3月より訴えつづけているが、いまだに機会を得られずにいるという。

重ねて5月にも書面を出したが、今なお「御成敗(裁決)」が下りないとし、光阿は「無術(どうすることもできない)」と嘆き、永経の「違背(不法)」は限度を超えていると主張する。

先に提出した証拠書類(証文)と道理に基づき、速やかな裁定を求めて執拗に食い下がっているのである。



この泥沼の訴訟の結末は、意外なかたちで残されていた。

永経の家系図(「中村栄永相伝系図案」)に付記された以下の記録が、軍配のゆくえを示している。



  【『筑前国怡土荘史料』88号文書(中村栄永相伝系図案)】

  (伊勢次郎永経)

  嘉元四年六月二日譲得之、

  永経、徳治三年四月廿一日對于今津初子尼光阿出挙質ニ書入之處、

  自翌年春押作之間、就許申、

  延慶二年十一月十一日経本所下知、永経令安堵了、




これによると、嘉元4(1306)年6月に永経が譲り受けた同田地は、徳治3(1308)年に光阿へ「出挙質(借金の担保)」として差し入れたらしい。

ところが翌年春から光阿側が同田において「押作(強引な耕作)」をはじめたので、永経側が訴えを起こすことになる。

はたして、延慶2(1309)年に「本所(荘園領主)」の下知により、永経の所有権が「安堵(公認)」されて一連の訴訟は決着している。



これら一連の文書からわかることは、両者の主張の、真っ向からの食い違いである。

まず、光阿が「永経による不当な占拠」を訴え、訴訟を提起した。

これに対し、永経側の記録(系図)によれば、光阿こそが借金の担保として預かっていた田地を「強引に耕作(押作)した張本人」であると記されている。

さらに不可解なのは、両者の認識における「時間軸の乖離」である。

永経側は「延慶2(1309)年に勝訴した」と記録しているが、その後の延慶4(1311)年に至っても、光阿は「依然として裁決が下されない」と激しい追及(重申状)を継続している。

この齟齬は、一度下された裁定を不服として光阿が蒸し返したものなのか、あるいは永経側の記録が自己正当化のために事実を粉飾したものなのか、容易に断定することはできない。

いずれにせよ、この泥沼化した係争の記録からは、土地という生存の根幹に執着せざるを得なかった中世社会の人々の、むき出しの執念が伝わってくるようである。




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使節「三雲五郎入道道法」の台頭


前回の文書から24年が経過した建武2(1335)年。

足利尊氏と後醍醐天皇の対立により南北朝時代へと突入する激動のさなか、三雲姓の「三雲五郎入道道法(みくものごろうにゅうどう どうほう)」が史料上に姿をあらわす。

彼は、三雲孫三郎入道法円の子、あるいは孫にあたる人物と推定される。

本史料は、怡土荘(いとのしょう)の小地頭である「中村孫四郎入道栄永(なかむらのまごしろうにゅうどう えいえい)」が、対立相手の不誠実な対応を批判し、鎮西探題へ提出した「重言上(重ねての訴え)」の控えである。



  【『筑前国怡土荘史料』96号文書(中村栄永申状案)】

  筑前國中村孫四郎入道栄永重言上

   爲北崎次郎丸後家尼去今両年難渋至極上者、任格制旨、欲被打渡下地、

   同國志登社神宮寺別當職免田等事、

  副進

   一通 栄永本解状 <建武元年十月日>

   一通 御教書 <一通 建武元年十月十八日>
          <一通 同   十一月五日>

   一通 資清請文 <建武元年十一月八日>

   一通 使節道法請文 <同十月十八日>

   一通 栄永重訴状案 <同十二月日>
             <以難渋篇可被経御沙汰事>

   一通 資清重陳状 <建武二年三月日>

   一通 栄永重訴状案 <建武二年五月日>


  右、子細本解以下訴状具書炳焉、爰仰使節三雲五郎入道道法可出帯文書正文之旨、

  被成御教書之處、如道法執進資清請文者、爲本領<云々>、

  然而不出帯一紙所見状、送数十ヶ日之間、任傍例以難渋之篇、可被経御沙汰之旨、

  去年<建武元>十二月日捧訴状<相副資清請文正文>之處、

  不及執御沙汰数ヶ月延引之刻、今年三月日稱資清陳情、

  雖捧同篇胸臆状、不出帯本領一紙之所見、

  仍栄永進覧重巨細訴状之處、資清不及重陳情無音送数ヶ月之条、無理顕然也、

  然早任去今両年難渋之実、被経御沙汰、爲蒙御成敗、重言上如件、

   建武二年七月 日


  ※<>内は小字表記



以上より、北崎次郎丸の「後家尼(未亡人)」に代わり、「筑前國中村孫四郎入道栄永」が訴訟を主導していることがわかる。

争点は「志登社神宮寺別當職免田(税免除地)」などの領有権で、主な登場人物の相関は以下のとおりである。



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詳細な事情は初回の申状に記したとおり、もはや「炳焉(明白)」であると中村栄永は断じる。

かつて当局(鎮西探題)は、使節「三雲五郎入道道法」に対し、「資清に証拠書類(正文)を提出させよ」と命じた。

これに対し資清は、三雲道法を介して「ここは自分の領地である」という旨の「請文(回答書)」こそ提出したものの、それを裏付ける証拠書類は「一紙」も出さぬまま、数十日も回答を引き延ばしたのである。

中村栄永は、この資清のふるまいを「難渋(不当な引き延ばし)」であると激しく非難する。

その後、資清は「陳情」と称していいわけを並べた書面を提出したものの、やはり客観的な証拠は皆無であった。

さらに、中村栄永が再反論を行うと、資清は数ヶ月も「無音(沈黙)」をつづけている。

中村栄永は、資清の「無理(道理のなさ)」は「顕然」であるとし、足掛け2年にわたる相手の不誠実な態度を鑑み、速やかに「御成敗(正式な裁決)」を下すよう求めているのだ。



こうした原告・被告間の激しい応酬のなかで、実務を担うキーマンとして登場するのが「三雲五郎入道道法」である。

彼は「使節」という公的な立場で、証拠書類を出せないまま引き延ばしを図る資清に対し、当局の命を奉じて正文の提出を督促する役割を担っていた。

つまり道法は、裁判実務における重要な結節点を占めていたといえる。

この事実からは、当時の三雲氏が地域社会において高い行政能力と、公権力に連なる実力を持っていたことがわかる。




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向かって左手が「築山古墳」、右手のやや遠くが怡土平野最大の前方後円墳「端山古墳」




雑訴決断所下文と証人「三雲五郎入道道法」


同じく建武2(1335)年、三雲五郎入道道法は、当時の国家最高裁判機関である「雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)」が発付した公文書にもその名を残している。

本史料は、後醍醐天皇による「建武の新政」下において、筑前国の名刹「雷山千如寺(らいざんせんにょじ)」に対し、その領地支配を正式に公認(安堵)した「下文(くだしぶみ)」である。



  【『筑前国怡土荘史料』111号文書(雑訴決断所下文)】

  雑訴決断所下  雷山千如寺衆徒等中

   當寺領筑前國法事持聖清賀開発田地御坂村在家田畠山野等事

  右、件村千如寺當知行之由望申安堵牒状之間、

  被尋問實否於當國守護人大宰少貮頼尚之處、

  如去年<建武元>十一月八日所執進之證人三雲五郎入道々法已下五人請文者、

  寺家所申無相違<云々>、然者千如寺當知行不可有相違之状、下知如件、

      建武二年九月廿九日    前筑後守藤原朝臣(花押)

  中納言兼(略)藤原朝臣(花押)  明法博士兼(略)中原朝臣(花押)

  修理大夫藤原朝臣         右少辨藤原朝臣

  信濃守藤原朝臣          右中辨藤原朝臣


  ※<>内は小字表記



本状は、「雷山千如寺衆徒等中(僧侶ら一同)」に宛てられたものである。

その内容は、同寺の「持聖清賀」が開発した「御坂村(三坂村)」の在家・田畑・山野について、千如寺の正当な領有権を認める(安堵する)というもの。



この安堵にあたり、雑訴決断所はきわめて慎重な法的手続きを踏んでいる。

まず、事実関係の真偽を確認するため、筑前国守護「大宰少弐頼尚(だざいのしょうに よりひさ)」に対して実態の照会を行った。

これを受けた調査の過程で、前年(建武元年)11月8日に提出されていた「三雲五郎入道道法」ら5名の証人による請文(陳述書)の内容が精査されることとなる。

その結果、道法ら地元の有力者による証言が「寺側の申し立てに相違なし」と公的に認められたのだ。



着目すべきは、国家機関である雑訴決断所が、現地の守護を通じて三雲道法らの証言を「直接の根拠」として採用している点である。

これは、「三雲五郎入道道法」が地域の土地事情に精通し、公権力からも信頼される「土地の保証人」的な立場にあったことを示している。

本文書の署名欄には、「前筑後守藤原朝臣」や「中納言兼大蔵卿左京大夫大判事侍従藤原朝臣(吉田定房か)」といった、後醍醐天皇の側近たちが並ぶ。

有力寺院である千如寺の権利を認めるにあたり、中央の最高幹部たちが慎重かつ厳格に法的手続きを踏んでいたことがわかる。

また、かつて惣地頭大友氏に抵抗した「三雲孫三郎入道法円」の段階から一歩すすみ、この代の三雲氏は、他者の土地権利を証明する側に回っている。

三雲氏の一族は、この4半世紀の間に、地域における「公的な地位」を確固たるものにしていたのである。




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三雲の産神(村社)である「細石(さざれいし)神社」は、別名「三雲宮」とも呼ばれている




今回のまとめ


中世怡土荘の関係史料に登場する「三雲孫三郎入道法円」と「三雲五郎入道道法」。

両人は親子また祖孫関係とみられ、鎌倉末期の嘉元3(1305)年から南北朝期の建武2(1335)年までの約30年間の史料上に名を残す。

これらの史料は、彼らが地頭に抗う「抵抗者」から国家の裁判実務を担う「執行者」へと、その立ち位置を鮮やかに変貌させたことを示している。

以下、両人の活動を整理しておきたい。




【1】 三雲孫三郎入道法円(みくものほうえん) 【登場時期:1305-1311年頃】

嘉元3(1305)年の【『鎌倉遺文』22294号文書】によれば、法円は怡土荘の「師吉名」の名主として登場する。

惣地頭大友氏に対し、じつに20年近くに及ぶ年貢・公事の上納を拒否しており、鎮西探題が派遣した使節に計5回もの請文を提出している。

しかし、「すでに代官へ納入済みである」また「期限を定めて精算する」といった主張を繰り返し、老獪な訴訟戦を展開した。

これは、元寇後の重い負担に抗う名主層(在地武士)のたくましさを象徴している。



延慶4(1311)年の【『筑前国怡土荘史料』80号文書】では、法円に「伊勢次郎永経」という「祗候人(家来)」がいたことが判明する。

この事実は、彼が私的な主従関係を構築し、独自の軍事力(私兵)を備えていたことを示唆している。

すなわち、当時の三雲氏はすでに、在地における実効支配力を背景に、自立性の強い「在地領主」としての性格を色濃く有していたと推察される。



【2】 三雲五郎入道道法(みくものどうほう)【登場時期:1335年頃】

建武2(1335)年の【『筑前国怡土荘史料』96号文書】において、次代の道法は鎮西探題の「使節」として出現する。

怡土荘の「中村孫四郎入道栄永」と「資清」の相論において、証拠書類(正文)の回収や進呈という裁判実務の要を担った。

かつて惣地頭に抵抗した三雲氏は、この時期、行政実務を執行する「公的な側」へとその立ち位置を変えている。



同年9月の【『筑前国怡土荘史料』111号文書】は、三雲氏の地位が一段上がったことを示している。

後醍醐天皇の「雑訴決断所」が雷山千如寺の領地を安堵する際、その決定的な根拠としたのが、筑前国守護「少弐頼尚」を通じて提出された道法ら5名の証人の請文であった。

中央の最高幹部たちが名を連ねる公文書において、道法の証言が「寺側の申し立てに相違なし」と認定されている。

この事実は、彼が地域の権利関係を一身に知る存在として、幕府から一定の信頼を寄せられていた証左といえる。



三雲氏が歩んだ軌跡は、中世という荒波を乗り越えるための「転換」の記録である。

惣地頭の権威に盾突く不敵な「抵抗者」から、鎮西探題や守護の命を実務レベルで遂行する「執行者」へ。

このように、古代以来の「三雲」の地に根を張った三雲氏は、鎌倉から南北朝に移行するなかで在地領主としての地位を確立した。

もっとも、その活動が確認できるのは建武2(1335)年9月までであり、以降の動向についてわかる史料は途絶えている。




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参考:『鎌倉遺文 古文書編 第29巻』竹内理三 編(東京堂出版1985年)
   『九州荘園史料叢書4 筑前国怡土荘史料』新城常三・正木喜三郎 共編
   (竹内理三1963年)
   「筑前国怡土荘について ー鎌倉期におけるー」正木喜三郎 著
   (『九州中世史研究 二』文献出版1980年)
   『筑前国續風土記』貝原篤信 著(名著出版1973年)
   『筑前国續風土記附録(下巻)』加藤一純・鷹取周成 著(名著出版1978年)
   『新修 志摩町史 上巻』同編集委員会 編(志摩町2009年)
   『糸島郡誌』糸島郡教育会 編(名著出版1972年)
   『怡土志摩地理全誌1 怡土編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)




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細石神社近くに小さな墓石。前回紹介した伝説「有光どん」の墓か!とご近所の方に尋ねたところ、まったくわからないとのこと
posted by 由比 貴資 at 20:20| Comment(0) | 糸島中世史

2026年02月22日

糸島伝説「大食い有光どん、二斗の餅に散る」 ー語り継がれる大食い男の伝説と、元亀二年の戦国糸島史ー

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◯ 糸島伝説「大食い有光どん、二斗の餅に散る」


福岡県糸島地方には、数多くの伝説(糸島伝説)が残っている。

そのなかでも異彩を放つのが、農民から武士へと取り立てられながら、自らの「大食い」が原因で悲劇的な末路をたどった男の話。



その男とは有光次郎左衛門、通称「有光(ありみつ)どん」で、糸島市三雲周辺に伝わる伝説である。

彼は時の高祖城主「原田了栄」の前で、一斗(約15kg)の餅を平らげたという。

しかもこの直前にも一斗、つまり、わずか一日のうちに二斗(約30kg)もの餅を食べたというのだ。

これはただの笑い話のようにも聞こえるが、その背景には、一介の農民が自らの体ひとつで立身出世を目指した切実な時代性がみえ隠れする。

この無謀ともいえる挑戦は、彼に武士の身分をもたらした一方で、あまりにも残酷な代償を突きつけることになった。



また、伝説の舞台となった「三雲(みくも)」は、古代伊都国の中心地として栄えた場所である。

中世には、原田氏が築城した高祖山の西、豊穣な怡土平野の中央部に位置し、多くの原田氏の家臣・領民が居住した。

有光どんも仰ぎみたであろう高祖山の稜線、そして眼下に広がる怡土平野。

その風景には、数千年にわたって積み重ねられたこの地の記憶が、静かに刻まれているはずである。



この伝説が生まれたとされるのは、戦国時代後期の元亀2(1571)年。

当時の糸島は、在地勢力である原田氏を中心に、近隣諸勢力や戦国大名大友氏の影が交錯する動乱の渦中にあった。

絶え間ない戦乱に翻弄される過酷な日常のなかで、このような「食」にまつわる強烈な個人の伝説が語り継がれてきた事実は、どこか人間味のある温もりを感じさせる。



そこで今回は、同伝説を主軸に紹介するとともに、伝説の地「三雲」についての概略、さらに当時の時代背景についても簡単にふれている。

本記事の構成は次のとおりである。


 ・ 糸島伝説「大食い有光どん、二斗の餅に散る」
 ・ 伝説の地「三雲」のこと
 ・ 伝説の時代背景 〜元亀2(1571)年の糸島


(三雲橋/高祖山 他 2026年2月撮影)




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糸島伝説「大食い有光どん、二斗の餅に散る」


怡土郡は高祖山の麓、五郎丸の里には鋭く冷たい風が吹き抜けていた。

拙者の名は、次郎助(じろうすけ)

六尺の体格に恵まれ、村一番の力持ちと自負している。

腹の皮もまた人並み外れて厚く、正月の餅食い競争で一斗を平らげてしまった。

これには、村中がひっくり返るような騒ぎとなった。

それで、あろうことか高祖城主、原田了栄様の耳に届いたのである。



   「殿様が、お前の大食ぶりをご覧になりたかそうだ」



五郎丸の名主からそう告げられた時、拙者の心は躍った。

雲の上の存在である殿様にお目通りできるなど、農村の一民としてこれ以上の誉れはない。

拙者は気合を入れた。



  失敗は許されん

  ならば、予行演習たい



思い立ったが吉日である。

時は金なり、いや、時は餅なり。

すぐに家人に命じ、一斗の餅をつかせた。

それから湯気を立てる餅を、一心不乱に食らい、腹に収めていく。

一斗という量は生半可ではない。

だがそれが、鍛え抜いたこの腹には心地よい重みであった。

最後の一つを飲み込み、膨れ上がった大腹をポンと叩いた、その時である。



  「次郎助、おるか!

   城へ上がるのは今日になった

   これから参るぞ」



慌てて駆け込んできた名主の言葉に、拙者は凍りついた。

腹の中には、今しがた収めたばかりの一斗の餅が、石のように鎮座している。

これから城へゆき、さらに一斗を食えというのか。

一瞬、辞退の文字が頭をよぎったものの、すぐにそれを打ち消した。

拙者は生粋の餅好きであり、なにより根性だけは誰にも負けん。

この好機を逃せば、拙者は一生土にまみれて終わるだけだ。



   「……承知いたしました

   すぐに参ります」



拙者は重い腹をかかえ、名主の後につづいて城への坂道を登った。

一歩ごとに、胃の中の餅がずしりと揺れる。

そして、城中。

目の前には、つきたての真っ白な餅が広間いっぱいに並べられている。

上座には、泰然と座しておられる原田了栄様。



   「次郎助とやら、存分に食うがよか

   その勇姿、とくと見せてもらおう」



殿様直々のお言葉に、拙者は覚悟を決め、餅に手を伸ばした。

最初の五升までは、不思議と喉を通った。

つきたての餅の甘みを口いっぱいに感じられるほどであった。

ただ、そこからが地獄。

先に食った一斗が、新しく入ってきた餅を激しく押し返してくる。

喉元まで餅がせり上がり、息をするのも苦しい。

額からは滝のような冷え汗が流れ、目の前がチカチカと火花を散らす。



  なんのこれしき、負けてたまるか



意識が遠のきながらも、ただ責任感と意地だけで、最後の一塊を飲み込んだ。



  「……ご、ちそうさまでした」



声を絞り出し、深く頭を下げた。

顔は苦痛に歪んでいたに違いないが、殿様は満足げに大きく頷かれた。



  「見事である!

   そちの食いっぷり、余も元気をもろうたぞ

   その体躯、百姓で終わらせるには惜しい

   わが家臣となり、『有光次郎左衛門』と名乗るがよかろう

   明日から出仕せよ」



過分なる引き出物まで賜り、拙者は夢見心地で城を辞した。

しかし、城門を出た途端、凄まじい激痛が腹を襲った。

もはや歩くことすらかなわず、地を這い、泥にまみれながら、命からがら家にたどり着いた。

寝床に倒れ伏した拙者は、おのれの命の灯火が消えかけているのを悟った。

一日に二斗の餅。

いいわけは不要、自己の過信が招いた結末である。



  せっかく…侍になれたというのに……無念



薄れゆく意識のなかで、拙者は家族に最期の願いを託した。



  「わしの墓は……高祖のお城が望める場所に建ててくれ

   あのお方の家臣として、いつまでも見守っときたい……」



それが、次郎助、いや有光次郎左衛門としての最期の言葉となってしまった。

拙者の墓は、今も三雲橋の西、高祖城と対面する場所に立っている。

里の者たちは「有光どんの墓」と呼び、いつしか胃腸の弱い者が参るようになったようだ。

自らの大食らいで命を落とした拙者が、今では人々の腹の病を治しているとは、なんとも皮肉な話である。

しかし、あの日に殿様からもらった「見事」の一言を思い返せば、わが人生も悪いものではなかったと思いたい。



さて貴殿、最近の胃腸の具合はいかがか。

もしも不調があるのなら、いつでも拙者のところに参られたらよか。




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伝説の地「三雲」のこと


以上が、糸島に伝わる大食漢「有光(ありみつ)どん」の伝説である。

この話には異説がある。

有光どんは餅の食べ過ぎで亡くなったのではなく、天正14(1586)年の豊臣秀吉による九州征伐の際、主君である高祖城主原田氏に従って出陣し、瑞梅寺川原で戦死したというものだ。



戦死か、それとも食い倒れか。

どちらにせよ、彼が平らげたという「二斗」の餅は、重量にして約30kgにも及ぶ。

わずか一日のうちにこれほどの量を完食したというのは、いかにも伝説特有の誇張に聞こえるかもしれない。

とはいえ、餅の食べ過ぎによる急死という結末そのものは、必ずしも荒唐無稽な話ではない。

限界を超えた過食が、生命維持をつかさどる臓器に致命的な負荷をかけるのは事実だからである。



有光どんの古墓は「昭和バス怡土線の『三雲橋』というところで下りて西に約百米、田んぼのあぜ道」にあると伝えられてきた。

しかし現在、その周辺に墓石は確認できず、移動あるいは処分された可能性がある。

墓があったとされる場所から東を望めば、かつて原田氏が居城を構えた高祖山がそびえている。



この「三雲(みくも)」という地は、怡土平野の中央に位置し、古代の王都「伊都国(いとこく)」の中心地であったとされる。

それを裏付けるように、約2千年前の弥生時代の王墓「三雲南小路遺跡」や「井原鑓溝遺跡」が発掘されている。

さらに、朝鮮半島由来の「石ヶ崎支石墓(ドルメン)」のほか、「端山古墳」「築山古墳」といった古墳群も点在。

この地が弥生時代から古墳時代にかけ、長きにわたり大陸交渉の玄関口として、また地域の中枢として繁栄しつづけてきたことをしのばせる。



三雲の地名は、かつてこの地にあった大寺「興雲庵」の池から、三筋の紫雲が立ちのぼったことに由来するという。

平安中期の辞典『和名類聚抄』に記された怡土八郷の一つ「雲治郷(くもはるごう)」は、現在の三雲・井原付近に比定されている。(『糸島郡誌』)



中世(鎌倉末期〜南北朝期)になると、地名を冠した「三雲」姓の人物が登場する。

嘉元3(1305)年から建武2(1335)年にかけての複数の文書には、親子とみられる「三雲孫三郎入道法円」と「三雲五郎入道道法」の名が記されている。

彼らは自前の家来をかかえ、鎌倉幕府の機関「鎮西探題」の使節を兼ねるなど、地域の上位に位置する有力な在地領主だったようである。(正木喜三郎氏論文)



時代が下った近世初期には、高祖城主原田氏の家臣「三島伊予守」がこの地に関わっている。

豊臣秀吉の九州平定後に原田氏が筑後国へ移封されると、三島氏は三雲に移り住み、代々庄屋をつとめた。 (『糸島郡誌』)

また、三雲の下西にある五輪塔を安置したお堂は、同じく原田氏の家臣であった「水崎加賀守」の墓であると伝えられている。(『福岡県地理全誌』)




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伝説の時代背景 〜元亀2(1571)年の糸島


有光どん伝説は、元亀2(1571)年のできごとという。

戦国時代後期にあたるこの年の9月には、遠く近江国滋賀郡で、織田信長の軍が比叡山延暦寺を焼き討ちした。

同年中、怡土郡内では「吉井合戦」があったと記録されている。

その概要は下記のとおりである。(『筑前国続風土記』巻之二十八/古城古戦場/怡土郡/吉井岳古城)



元亀2年(1571)正月。

肥前国の「草野四郎種吉(くさの しろう たねよし)」と、怡土郡吉井の「吉井左京亮隆光(よしい さきょうのすけ たかみつ)」との間で武力衝突が勃発した。

両者は以前から領地の境界線をめぐって激しく対立し、一触即発の状態にあった。



特筆すべきは、草野種吉が高祖城主「原田了栄(はらだ りょうえい)」の二男(草野氏へ養子入り)である点であろう。

吉井隆光もまた原田氏の傘下であり、つまり、この戦いは身内同士の争いであった。

原田了栄は深江豊前守を仲介役に立てて和睦を促したが、草野側はこれを拒絶。

あまつさえ、2千の兵を率いて岸岳城を出陣し、国境の鹿家(しかか)嶺を越えて吉井・深江の城下を焼き払ったのである。



吉井・深江軍は少勢のため、小金丸・波多江・重冨ら志摩郡の地侍衆に支援を要請する。

同正月15日、吉井浜での戦闘は当初、吉井軍が優勢であった。

草野軍はいったん鹿家方面へ退却。

吉井・深江軍は勝利を確信して帰城し、援軍の志摩勢は吉井浜にて野営していた。



ところが、まだ闇夜の「寅の刻(午前4時頃)」、草野軍が再び押し寄せ、鬨(とき)の声を上げた。

志摩勢が応戦に出ると、目の前には草野勢400〜500人が控えている。

志摩勢は「敵の残党、小勢なり」と侮って深く追撃したが、これこそが草野方の作戦であった。

草野方は別に600余人の伏兵を潜ませており、深追いした志摩勢の横合いから急襲すると、さらに背後からも包囲した。

この乱戦により、重冨・波多江・岩隈・吉田・徳丸・鬼木ら志摩勢39人が討死したという。



鉄砲の音を聞きつけた吉井・深江の両軍が再び出陣し、退却する草野勢の首級100余りを討ち取るなど反撃。

事態を重くみた原田了栄は、自ら高祖城から発向する。

しかし、すでに合戦は終わっていたため、原田了栄は加布里に滞留し、戦死者の遺体を引き取らせるなど、戦後処理に奔走した。

最終的には翌2月11日、戦国大名「大友宗麟(おおとも そうりん)」の命を受けた安東某が柑子岳城に入り、同城督「臼杵新介(うすき しんすけ)」とともに仲裁を開始する。

これにより、ようやく草野・吉井・深江の三者間で和睦が成立し、原田了栄も高祖に帰城したというのである。



だが、この合戦からわずか1年後の元亀3(1572)年正月。

今度は原田了栄自身が、臼杵新介に代わって柑子岳城に入った「臼杵進士兵衛(うすき ししべえ)」ら志摩勢と交戦している。

いわゆる「池田河原合戦」と呼ばれる戦いで、敗れた臼杵進士兵衛が潤平等寺で自刃して終結した。

当時の原田氏と臼杵氏は、同じ大友宗麟の傘下である。

結局のところ、同じ主君(大友宗麟)を仰ぐ者同士であっても、利害が対立すれば武力に訴えるのが常であった。

こうした絶え間ない戦火の記録からは、在地の侍や農民までもが翻弄される、戦国時代という過酷な世の実相が浮かび上がってくる。




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参考:『糸島伝説集』同編集委員会 編(糸島郡観光協会1973年)
   『筑前国續風土記』貝原篤信 著(名著出版1973年)
   『福岡県史 福岡県地理全誌(六)』西日本文化協会 編(福岡県1995年)
   『糸島郡誌』糸島郡教育会 編(名著出版1972年)
   『前原町誌』牛原賢二 編(糸島郡前原町1941年)
   『前原町誌』同編集委員会 編(糸島郡前原町1990年)
   『九州荘園史料叢書4 筑前国怡土荘史料』新城常三・正木喜三郎 共編(竹内理三1963年)
   「筑前国怡土荘について ー鎌倉期におけるー」正木喜三郎 著(『九州中世史研究 二』文献出版1980年)
   『新修 志摩町史 上巻』同編集委員会 編(志摩町2009年)
   『怡土志摩地理全誌1 怡土編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)




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大食らいの侍「有光どん」も仰ぎみたであろう原田氏居城のあった高祖山
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2026年01月25日

加布里・岩本干拓と志摩様 ー初代唐津藩主「寺沢志摩守広高」の施政と伝説に読み解く近世糸島史ー

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◯ 加布里・岩本干拓と志摩様


糸島の近世史を語るうえで欠かせないテーマの一つが、「干拓」である。



かつて糸島半島の付け根付近には、往古の「糸島水道」を彷彿とさせる広大な潟地が広がっていた。

東の瑞梅寺川、西の雷山川。

これらの河口部に広がる遠浅の海や湿地を堤防で仕切り、陸地へと変える。

郷土で「開(ひらき)」と呼ばれた干拓は、地域の生産力を高め、人々の生活基盤を築くために不可欠な開発事業であった。



糸島干拓の端緒は、豊臣秀吉による天下統一直後の天正18(1590)年。

僧侶「龍念」の主導により、現在の糸島イオン(志摩津和崎)周辺で実施された。

この「龍念開(りゅうねんひらき)」を皮切りに、糸島の風景は大きく変貌を遂げていくことになる。



江戸時代に入ると、さらなる農地拡大と財政基盤の安定化を目指し、藩による組織的な開発が本格化した。

関ヶ原の戦功により筑前国に入った黒田長政は、代官の菅和泉守正利に命じ、龍念開の南側(津和崎〜油比)の大規模な干拓を指揮させた。

これにより120町歩もの耕作地が誕生している。(新田開)

そして、この前年の元和3(1617)年には、唐津領であった加布里・岩本一帯でも干拓工事が実施されていた。



慶長4(1599)年、領地交換によって怡土郡西部の領主となった初代唐津藩主「寺沢志摩守広高(てらさわ しまのかみ ひろたか)」は、領内のインフラ整備や産業振興に優れた手腕を発揮する。

元和2(1616)年に検地を実施して領内の土地の状況を把握すると、翌年にはその強力なリーダーシップのもとで大規模な干拓に着手。

こうして誕生した「大新開(だいしんひらき)」や「岩本開(いわもとひらき)」は、特に岩本村の農地面積を従来の4倍近くまで拡大させた。

もっとも、新しく造成された低湿地ゆえに、同地の農民たちは冠水や干ばつ、塩害といった困難に直面することも多かった。

寺沢志摩守が整備した生産基盤のその後の発展は、あくまで郷土の人々の粘り強い営みを礎に築かれたものである。



それにしても、これら郷土の干拓に関する記録は意外なほど少ない。

加布里・岩本についても同様で、近代以降に編まれた町誌・郡誌に断片的な記述が残るのみである。

そこで今回は、両開発(干拓)までの経緯を追いながら、開発主体である寺沢志摩守のおおまかな施政から、同人に関する評価がわかる伝説を紹介している。

これらから、糸島の原風景がいかなる変遷を経て今日に至ったのか、その実像をわずかなりとも明らかにしたい。

本記事の構成は以下のとおりである。


 ・ 唐津領となった怡土郡西部と加布里・岩本の干拓
 ・ 唐津藩による怡土郡支配の仕組み
 ・ 唐津藩祖「寺沢志摩守広高」と、寺沢家のその後
 ・ 今回のまとめにかえて 〜糸島伝説と志摩様


(加布里・岩本干拓故地/白み口地蔵堂 2026年1月撮影)




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唐津領となった怡土郡西部と加布里・岩本の干拓


天正15(1587)年4月、豊臣秀吉によって九州平定が成し遂げられた。

この戦役の最前線で活躍した小早川隆景(毛利元就の三男)は、博多以外の筑前国15郡を与えられ、同国領主となった。

小早川隆景は、領内の村々を対象に「天正検地(太閤検地)」を実施。

田畑の面積と所有者を明確にすることで、年貢の上納高(石高)を確定させた。

検地直後と考えられる記録に以下の数値が残っている。(由比章祐研究)



  加布里村  <石高> 109石2斗7升

  川上リ村  <石高> 3,327石2斗




川上リ村は、長野川最下流域の神在から東、長野辺りまでに比定される。

当時は名島城の築城や朝鮮出兵の時期にあたり、石高の4〜5割にのぼる重い上納が命じられた。

名島城完成後の小早川隆景は、秀吉に対し、博多を自領とする代わりに、替え地として怡土郡西部を差し出すことを願い出ている。

自身の居城の目前に秀吉の直轄領である「博多」が存在することを、今後の筑前経営の障壁になると考えたからである。

これが認められた結果、加布里周辺の村々は秀吉直轄領(公領)となった。



慶長4(1599)年、当時の唐津藩主「寺沢志摩守広高(てらさわ しまのかみ ひろたか)」は、自領の飛び地であった薩州出水郡と、公領であった怡土郡西部の交換を願い出る。

認可後、怡土郡西部は唐津領へと組み込まれた。

藩主寺沢氏は同領を「鹿家組・深江組・加布里組・川上東村組・長野組」の5組に区分し、各組に「惣庄屋(大庄屋)」を配した。

惣庄屋は各村の庄屋から代表が選ばれ、自村の庄屋職を兼任するかたちをとっている。



元和2(1616)年、唐津城を完成させた寺沢広高は、領内で「元和検地」を断行した。

これは一区画ごとに田畑や屋敷の面積を測量し、土地の肥沃度を「上・中・下・下ノ下」の4段階で評価して収穫量を見積もるものであった。

その過酷さは「百姓難渋の時来たり……およそ日本国中に類例なき程」と評されるほどで、農民の負担は激増したという。

この検地により、唐津領全体の石高は当初の「12万3千石」から「15万石あまり」に跳ね上がり、そのうち怡土郡分は「2万8千石」を占めるに至った。

以下は、元和検地時の怡土郡加布里組4村の石高ならび総田数である。(由比章祐研究)



  加布里村  <石高> 434石1斗3合   <田数合>18町5反9畝あまり

  神在 村  <石高> 1,089石9斗1升5合 <田数合>48町2反2畝あまり

  東  村  <石高> 1,474石7斗    <田数合>60町  6畝あまり

  岩本 村  <石高> 91石7斗2升7合  <田数合> 8町4反4畝あまり




検地の翌年である元和3(1617)年、さらなる年貢増収を目指した唐津藩は、加布里周辺の干拓に着手した。

対象となったのは、現在の加布里小学校から北側の一帯である。

長野川下流域の堤防を改修して進められたこの干拓地は「大新開(だいしんひらき)」と呼ばれた。



さらに同年中、岩本村の北側と西側でも干拓(岩本開)が行われた。

この南端には横並びで家屋が建てられ、いわゆる「作出村(つくりでむら)」の原型が誕生した。

作出村とは、通作の利便性を高めるため、耕作地の近くに移住して形成された集落のことをいう。

現在の岩本橋から西側500メートルにわたって軒を連ねる家屋群がそれである。

これら一連の干拓事業の完工後、同地には以下の新田や塩田が拓かれ、その風景を一変させた。(由比章祐研究)



  岩本 新田  23町5反6畝

  神在 新田  5町あまり

  岩本 塩田  3町7反

  加布里塩田  10町5反




特に岩本村の農地は、従来のわずか「8町4反4畝あまり」から一挙に増加したことがわかる。

しかし、最低標高にある干拓地は、ひとたび大雨が降ればすぐに冠水し、日照りがつづけば干ばつに見舞われた。

さらに、かつて海域であった土壌には多くの塩分がふくまれており、これが地表に集積して農作物の生育不良を引き起こすことも。

干拓新田は、その総面積に比して収穫量が少ないのが常であった。

これらの土地が相当の実りをもたらすまでには、その後、気が遠くなるほどの長い年月を要したのである。




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唐津藩による怡土郡支配の仕組み


寺沢広高が初代唐津藩主となったのは、慶長2(1597)年とされる。

秀吉の朝鮮出兵に際し、輸送関係の指揮官として活躍した寺沢広高は、この功績によって唐津本領と薩摩国出水領を賜り、大名の地位を確立した。

慶長4(1599)年、寺沢広高は飛び地となる薩摩国出水郡と、自領に隣接する公領の怡土郡西部との交換を願い出ている。

これが認可されたことで、「福井・鹿家・吉井・竹(武)・長石・一貴山・松国・濱久保・田中・満吉・瀬戸・川上(長野)・神有・堂ノ元(深江)」など、怡土郡西部の村々が新たに唐津領へと組み込まれたのである。(『浜玉町史』)



唐津藩の主領である松浦郡は、中世以来、波多氏や草野氏、鶴田氏が領した地。

それに怡土郡西部は、原田氏の旧領である。

遠く尾張国を本貫にする寺沢氏は、いわゆる「よそ者」の大名であり、これらの支配には細心の配慮が必要であった。

そこで寺沢広高は、彼らの旧家臣たちを「郷足軽」や「庄屋」に登用し、身分的また経済的な優遇措置を与えることで統治の安定を目指している。



藩境の警備や藩の雑務に従事した「郷足軽」は、免租地5反歩の待遇であった。

怡土郡の場合、堂ノ元(深江町道元)に11名、小松(松国村小松崎)に10名の郷足軽が配備されている。

寛永15(1636)年、神在村赤坂の山麓を開発して「赤坂番所」、加布里村の城山に異国船監視のための「遠見番所」を設置。

これより、郷足軽は小松崎組・道元組ともに両番所に勤番するようになった。



寛永13(1636)年頃より、藩は5か村前後を一つの「組」として編成する制度を整えた。

怡土郡は「鹿家組・深江組・加布里組・川上東村組・長野組」の5組編成で、各組には、村々の庄屋を監督する「惣庄屋(大庄屋)」を配置した。

惣庄屋は、各村の庄屋のなかから代表者が選ばれ、自村の庄屋職との兼任である。

彼らには「庄屋扶持米」や「大庄屋役料六分米」など役手当が支給されたほか、絹服の着用、藩主への謁見が許可されている。

また、庄屋は脇差の帯用、惣庄屋は名字帯刀に乗馬といった特権が認められた。



寺沢氏は、庄屋階層に世襲制の身分・経済的特権を保障することで、彼らを農民統制の協力者として取り込んだ。

こうして領民の不満を抑え、藩の財政基盤となる年貢収納の確実な遂行を図ったのである。




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唐津藩祖「寺沢志摩守広高」と、寺沢家のその後


初代唐津藩主「寺沢広高」が歴史の表舞台に登場するのは、豊臣秀吉による天正15(1587)年の九州征伐である。

寺沢広高はこの際、長崎へ派遣され、キリシタンの実情を調査して秀吉に報告する役割を担った。

その後の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、自らは渡海せず肥前名護屋にとどまり、後方支援の要である輸送奉行として手腕を発揮する。



文禄3(1594)年には長崎奉行に任ぜられ、秀吉没後は徳川家康に接近してその信任を得た。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属し、その軍功により肥後国天草郡4万石を加増される。

これにより、従来の肥前国松浦郡などに天草を加えた計12万3千石を領する大名となった。

慶長7(1602)年には唐津湾に臨む満頭山にて築城を開始し、慶長13(1608)年に唐津城を完成させた。

領内経営にも尽力した寺沢広高は、防風林「虹の松原」の植樹や松浦川の治水、新田・塩田などの開発を積極的に進めている。



寺沢広高の後継については、嫡男の忠清が雄藩島津氏との縁組を控えていたが、これは破談に終わる。

さらに、寛永4(1627)年に忠清が急死したため、二男の堅高(かたたか)が家督を継いで2代藩主に。

隠居した寺沢広高は、寛永10(1633)年にこの世を去った。



2代目堅高の代、徳川幕府の統治下で寺沢氏の領国経営は最大の危機を迎える。

寛永14(1637)年に勃発した「天草・島原の乱」である。

この大規模な一揆の背景には、過酷な年貢の取り立てと厳格なキリシタン弾圧があった。

特に天草は、かつての領主であったキリシタン大名「小西行長」の旧臣が多く残る土地柄である。

不作がつづくなかでの年貢徴発と信仰への弾圧に、旧臣層と農民たちの我慢が限界に達し、島原の領民と呼応するかたちで武力蜂起へと発展した。



一揆勢は原城(有馬城)に立てこもり、幕府軍と熾烈な攻防を繰り広げた。

乱の鎮圧には、島原藩主「松倉勝家」や唐津藩主「寺沢堅高」のほか、九州諸大名が総動員されたという。

寛永15(1638)年、幕府軍の総攻撃により乱は鎮定されたが、その後の「仕置(処分)」は重いものであった。



幕府は、一揆を招いた責任を重くみなし、島原藩主の松倉勝家を斬罪に処した。

寺沢堅高に対しては、天草領4万石を没収した上で、蟄居謹慎を命じた。

その後、寺沢堅高は長崎見回り役などの公務を命じられたものの、領地削減と乱の事後処理による心労、そして家名の失墜という重圧に苛まれたようである。

正保4(1647)年11月18日、寺沢堅高は江戸屋敷で自ら命を絶つ。

寺沢堅高に跡継ぎがなかったため、寺沢家は改易・断絶となった。



寺沢氏の旧領はその後、2年弱の幕領期間を経て、慶安2(1649)年8月に大久保忠職(おおくぼ ただもと)が播磨国明石より入封し、唐津藩を引き継ぐこととなった。




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岩本橋の西側に約500メートルつづく家並みは、岩本開の南端に位置する




今回のまとめにかえて 〜糸島伝説と志摩様


以上、現在の加布里・岩本の風景を決定づけた近世干拓の歴史と、その立役者である初代唐津藩主「寺沢志摩守広高」の施策についてたどってきた。

かつての糸島は、入り海や湿地が広がるばかりの農地の少ない土地であった。

そこへ天正期の「龍念開」にはじまり、黒田氏による開発、そして寺沢氏による「大新開」「岩本開」といった大規模な干拓がつづく。

寺沢志摩守は、緻密な検地によって石高を増大させ、従来の在地勢力層の旧臣たちを「郷足軽」や郷村の「庄屋」に登用して統治機構を整える。

その一方で、過酷ともいわれる徴税と背中合わせの強固なリーダーシップで農地の拡大を断行している。

とはいえ、これらの記録だけでは、当時の領主と民衆の真の姿はみえてこない。

それを補い、今もなお郷土の記憶として息づいているのが、以下に挙げる3つの伝説であろう。



【1】白み口の由来

慶長年間以降、寺沢志摩守は怡土郡での新田開発や製塩事業に尽力する。

彼は「率先垂範」の精神を重んじ、自ら現場を督励するため、毎日寅の刻(早朝4時)には唐津を出発して馬を飛ばした。

彼が現在の福吉付近に到着する頃、ちょうど東の空が白み始めていたことが由来となり、その地は「しらみくち(白み口)」と呼ばれるようになった。

この地名は、領主自らが夜明け前から現場へ向かうという、寺沢志摩守の勤勉さと情熱を象徴している。




【2】采振りの松

大入駅近くには、寺沢志摩守を祀る「志摩大明神」の石碑がある。

寺沢志摩守は干拓事業の際、小高い丘の上の松の木の下で陣頭指揮を執り、その雄姿は領民に深く慕われた。

寺沢志摩守の没後、その松は「采振りの松」と呼ばれたが、のちに由来を知らぬ者が松を伐採したところ、関係者に不幸が相次いだ。

領民たちは「志摩様の怨念」と恐れ、寺沢志摩守の徳を忘れまいと石碑を建立。

これは死後もなお、彼が土地の守護神として敬われていた証である。




【3】ゆり田の話

深江の塩屋新田開発において、未亡人のお松は誰よりも早く働き、周囲への気配りも欠かさなかった。

寺沢志摩守はお松の献身に感銘を受け、彼女が差し出した草餅を、身分の隔てなく素手でつかんで美味そうに食べた。

工事完成後、寺沢志摩守はお松に田地を与え、さらに年貢を「桶(ゆり)一杯分」とする破格の恩賞を授けたという。

この田は「ゆり田」と呼ばれ、権力者が一庶民の真心を真っ直ぐに評価した美談として語り継がれている。




寺沢家は2代堅高の代、天草・島原の乱を経て改易・断絶という悲劇的な終焉を迎えた。

しかし、彼らが心血を注いだ「開(ひらき)」と呼ばれた干拓事業は、藩の財政基盤というにとどまらず、今日につづく郷土の豊かな田園風景そのものとなった。

厳しい検地や重税という負の側面がありながらも、寺沢志摩守が「志摩様」として今日まで語り継がれているのは、彼が夜明け前から馬を飛ばし、汗と泥にまみれて働く人々の苦労をその眼で見届けていたからに他ならない。

唐津・二丈方面からの東の加布里につづく海岸線に立つとき、私たちは今も、西方から響く馬蹄の音と、領民とともに歩んだ「志摩様」の確かな情熱を、潮風のなかに感じ取ることができるのである。




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参考:『前原町誌』牛原賢二 編(糸島郡前原町1941年)
   『前原町誌』同編集委員会 編(糸島郡前原町1990年)
   『浜玉町史 上巻』同編集委員会 編(佐賀県浜玉町1989年)
   『二丈町誌 平成版』同編纂委員会 編(二丈町2005年)
   『新修 志摩町史 上巻』同編集委員会 編(志摩町2009年)
   『目で見る加布里の歴史』同編集委員会 編(1989年)
   『多き実りを求めて ー糸島の干拓新田ー』前田時一郎 著(2000年)
   『糸島郡誌』糸島郡教育会 編(名著出版1972年)
   『福岡県史 福岡県地理全誌(六)』西日本文化協会 編(福岡県1995年)
   『筑前西郡史』由比章祐 著(福岡地方史研究会1982年)
   『怡土志摩地理全誌1 怡土編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)




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福吉駅と大入駅間にある白み口地蔵堂横の案内板

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大入駅の裏手にひっそりと立つ志摩様の石碑(2015年頃撮影)

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2026年01月03日

年始のご挨拶

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