2018年01月21日

法螺貝を吹いて、海賊から村を守った青年僧の死  2018年1月

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◯ 法螺貝を吹いて、海賊から村を守った青年僧の死


今回は、志摩船越に伝わる悲しい伝説を紹介します。

このブログでは、糸島の歴史や伝説について、できるだけ短くわかりやすくして発信しています。

年間をとおして釣り客でにぎわう船越の漁港。

その東奥の浜との境界に、しっかりした土台造りの石碑が立っています。

石台の上には、法螺貝がひとつ。

ここは、海賊からこの地の人々を救った青年僧を慰霊する石碑といいます。

本記事ではこの伝説を中心に据え、そこに登場する人物と関係する周辺社寺の由緒まで取り上げてあります。

それでは、以下の流れで話を進めていきましょう。


 ・ 志摩の武将が隠遁して開基した法正寺
 ・ 志摩の武将、小金丸氏
 ・ 白羽の矢を奉納する生松天神社(老松神社)
 ・ 海賊が来たぞ!船越浦に響き渡る法螺貝の音
 ・ 今に至るまで祀られる善応


(法正寺/生松天神社/善応地蔵 他 2018年1月撮影)




志摩の武将が隠遁して開基した法正寺


真宗本願寺派で、「龍江山」を山号とする法正寺(ほうしょうじ)は、志摩の西側、県道506号線から船越漁港へ入る入口傍にある。

天正16(1588)年に、了清という僧が開基した。

了清は、俗名を小金丸政種といった。

寺宝には、高祖城・原田家寄進の品が伝わる。




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志摩の武将、小金丸氏


志摩の可也山北麓辺り在郷の武士であった小金丸氏は、戦国の頃には志摩七党の頭領として、大友氏の支配下にあった柑子岳城・臼杵氏に従属した一族である。

元は高祖城・原田氏一族の原田種邦がこの地に住み、「小金丸」姓を称したのが始まりといわれ、南北朝時代には、原田氏を筆頭にする大蔵党の一武将として、少弐氏の麾下にあった。

その後志摩を領した大友方に帰順し、柑子岳城城代の臼杵氏に従うようになったが、元亀3(1572)年の池田川原の戦いで、臼杵氏が原田氏の軍勢に敗れて以降は、原田家に仕官するようになった。

しかし、戦乱の世に安泰はない。

天正15(1587)年、天下統一を完遂すべく豊臣秀吉が大軍を率いて九州入りしたため、原田氏は戦わずして高祖城を明け渡してしまった。

小金丸氏が武家を捨てて、船越へ隠遁したとされるのも、この頃である。




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白羽の矢を奉納する生松天神社(老松神社)


法正寺から東に150メートル、同じ集落内の小高い丘に、浦の産神となる生松(おいまつ)天神社はある。

祭神は、菅原道真公、そして紅梅天神と老松天神である。(『福岡県地理全誌』)

社伝によると、今から1000年も昔である寛仁3(1019)年春、異国の賊徒が郷土を襲った際に(刀伊の入寇)、この船越の地に襲来した賊船を、弓矢による一斉射撃にて撃退したという。

当社はその後勧請されて、賊徒退散の祈願社となった。

はじめは浦の南に位置する海岸沿いにあったが、文政6(1823)年に現在地へ遷座された。

現在も12月15日の宮座祭では、当番の家が持ち回りで、たずの弓に白羽の矢を作って奉献することが続けられている。




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海賊が来たぞ!船越浦に響き渡る法螺貝の音


今から約427年前の天正18(1590)年、秋も深まったある夜のことである。

久家(くが)の法正寺本堂に村の男衆が集まっていた。

この頃、郷土の沿岸は長州野島や松浦、そして近隣の吉井の海賊来襲による被害に頭を抱えていた。

海賊たちは、数十人規模の集団で押し寄せては、村の貴重な収穫物をはじめ、家畜や家財など手当たり次第に掠奪し、さらに村の女に暴行まで働くという蛮行の限りを尽くす。

そして、吉井浦を根城とする吉井敬吾という浪人が率いる賊団が、近いうちにここ久家、船越の浦に再び上陸するのではと村民の間で噂が広まっており、その防備をどうするか、村の男たちは知恵を絞り合おうというのである。

それには、海賊の来襲をいち早く知ることが先決だとして、船越山の頂に遠見番所を建てて、見張り番を置こうということで、満場の意見はまとまった。

ところが、である。肝心の遠見の番人に手を挙げるものがいない。

当然であろう。家業をほったらかし、人里離れた山の上で、朝から晩まで海を見張るということは、自分たち家族の生活が保障されないのだから。

そこで、持ち回りの交代制にしたらどうか、恨みっこなしのくじ引きで決めたらどうか、そんな意見も飛んだ。

しかし・・・


  うちの女房子どもは・・・もしその時に海賊が来たら、だれが守る?

  うちには俺以外に働き手がおらんし・・・だれが明日から漁に出る?

  うちには三年前から寝たッきりの婆がおる・・・だれが世話をする?


という案配で、話はなかなか先へ進まない。

そのとき、末座の中から声が上がった。


  「そのお役目、私がお引き受けいたしましょう」


源蔵という20代半ばとみえる青年であった。

 
  「皆さんは一家の主、海に出て漁をなさる大切なお方ばかり。

   それに引きかえ、私はこげな身で一人前に働くこともできません。

   女房子どももおらん。

   私こそ適役でしょう。」


源蔵の兄という人は、原田家の家臣だったというが、高祖城没落の後、兄弟で浪人となり、ここ久家の地に住むようになった。

不慮の事故から片脚を不自由にした源蔵は、法正寺の弟子として仏門に入ると、寺の手伝いをしながら慎ましく暮らしていた。


源蔵の申し出に村人たちは感謝しながらも、不具者への憐憫の情もあって、はいそれならとはいかず、だからといって他に引き受けようという者もいない。

しばらく続いた座の沈黙を破ったのは、法正寺の和尚、了清であった。


  「源蔵、明日から頼むぞ」


それから数日後、遠見番所となる小屋が完成すると、昼夜の別なく浦の守(もり)に就く源蔵の姿があった。

三度の食事は、源蔵の恋人、お島が破籠(わりご)に詰めて届けた。


その年も暮れて、翌年の天正19(1591)年、怖れていた海賊の姿もなく、のどかな海辺の正月も過ぎようとしていた。

ところが正月三日目の夕暮れのこと。

この日もお島が運んでくれた弁当を広げていると、沖の方から船が一隻二隻と、こちらに向けて突き進んでくるのが視界に入った。


  はて・・・正月で漁は休んどるはずやが・・


不思議に思いながら、沖の方に目を凝らして見ていると、大崎の奥向こうの海上からも漁船とは違う奇妙な形の船がちらちらしている。


  「海賊だッ!」


源蔵はすぐさま合図の狼煙(のろし)を上げると、集落の方に向かって喉も裂けんばかりに法螺貝を鳴らした。

法螺の音は村中を貫くように、長く、長く響き渡る。

村はたちまち騒然となったが、かねてから決めていた通り、食料から貴重な収穫物、家財道具の一切を積むと、家畜のある者はそれも引いて、

老人も子どもも総出で貝塚や小金丸の山の奥地へ避難した。

やがて海賊たちが久家の浜に上陸してきたが、猫の子一匹見当たらない。

村の家々は文字通り、もぬけの殻である。
 

  「畜生・・・どうやら裏をかかれたらしい」


これまでにない村人たちの機敏な行動に、地団駄を踏む海賊たちだったが、一人が遥か船越山の頂から立ち上る煙に気づいた。


  「あそこで合図したモンがおる!はよ捕えろッ!」


海賊たちは、一斉に源蔵たちのいる船越山へ向かって走り出した。

それに気がついた源蔵が、お島に背負われるように番所から降りたときには、賊徒の放った火が山麓を囲むように燃え上がっていた。

二人は火の間をくぐり抜けて、倒けつ転びつ懸命に浜を伝って逃げる。

やがて久家の浜まで来たところで、追って来た賊徒たちに取り囲まれてしまった。


  「おら!こやつらをさッさ縛れッ!」



   ぐ・・なぜすぐ殺さん。

   私たちを囮(おとり)にして村の者たちを誘き寄すというつもりか。

   どこまでも非道な奴らめ。良民を苦しめる海賊に人の心なし・・情けは不要ぞ


数人の海賊たちに力づくで縄を身体にまわされながら、お島を後方へ逃すと、源蔵は懐に忍ばせておいた小刀をそのうちの一人の胸深くに突き刺した。

激しいおめきの声と同時に、海賊たちの怒号と狂気の声が辺りに響く。

瞬く間に久家の浜は若い二人の血で染まった。

そして、動かなくなった二人を背に、憂さを晴らした海賊たちが船着き場へと向かおうとした・・そのとき!

白い光線が、賊長吉井の眉間を鋭く射抜いた。

吉井がドッと仰向けに倒れ落ちると、次々と浜辺に倒れ出す賊徒たち。

散り散りに逃げ惑う賊徒たちの急所に精確に命中するのは、白羽の矢である。

矢は生松の社の方から飛んでくる。

あっという間に、海岸は海賊たちの死体で埋まった。


一夜が明けて・・・

村には避難した人々がぞくぞくと荷を引いて戻ってきた。

村人たちがそこで見たものは、おびただしい数の海賊たちの死体、それに冷たくなった源蔵とお島の二人であった。


それにしても、海賊たちを殲滅させた白羽の矢はいったいどうしたことか。

これこそ、海賊たちの残虐さにたまりかね、源蔵の無念を思って立ち上がった法正寺和尚、了清の手練れた弓術による狙い撃ちであった。

彼は今でこそ僧侶であるが、もとは小金丸民部少輔政種と称した人物で、かつては各地に転戦した百戦錬磨の勇将であった。

しかし、主君が没落すると、この人もまたこの地に落ち延び、盛者必衰の世を厭い、名を了清と改めて法正寺の和尚となっていたのである。


その後、了清は惨れな最期を遂げた源蔵のために「善応」という僧名を送ると、船越の東に地蔵と庵を建てて懇ろ供養したという。




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今に至るまで祀られる善応


生松天神社という神域から飛び出す白羽の矢。

これにより、船越久家浦を幾たびも襲った悪賊、吉井敬吾は一瞬で誅殺されてしまったという。

この部分については、『傳説の糸島』や『糸島郡誌』では、矢を放った人物を明らかにされておらず、ますます「伝説」にお決まりともいえる「盛られた話(脚色)」という印象を否定できない。

ただ、船越の生松天神社は、11世紀の創建より賊徒調伏に験(しるし)のある社なのである。

このことを踏まえると、上記伝説との関連性もいっそう興味深くなる。

そして、源蔵を祀る地蔵(「善応地蔵」)と庵(「善応庵」)。

こちらは船越のご子孫の住居敷地内にある。

また、源蔵の最期の地となった久家南端の浜辺には、石碑が建てられている。

いずれも今に至るまで手厚く香華が手向けられており、この地にその身を犠牲にして村を守った、善応こと仲西源蔵という青年が確かにいたことを語り継いでいる。




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憐れな最期を遂げた源蔵を供養する「善応地蔵」

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その向かいには、同じく源蔵を祀るお堂「善応庵」

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源蔵最期の場所となった久家の浜にある石碑。碑を支える台石の上には法螺貝がみえる

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船越漁港から、遠見番所のあった船越山を望む。番所のあった付近を「善応」と呼ぶともいう

posted by 由比 貴資 at 18:35| Comment(0) | 糸島伝説
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