2018年02月25日

志摩郡泊氏のお家騒動にみる「戦国時代の志摩郡における権力階層」  2018年2月

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◯ 志摩郡泊氏のお家騒動にみる「戦国時代の志摩郡における権力階層」


今回のテーマは、戦国時代末期に志摩郡の泊氏とそのお家騒動です。

このブログでは、糸島の歴史や伝説について、できるだけ短くわかりやすくして発信しています。

歴史学において「お家騒動」といった場合、通常は江戸時代の大名家の内紛を指します。

お家(武家)の内部抗争そのものは、当然それよりも古い時代からありました。

その発端の多くは、家臣の派閥争い、また家督や遺領(遺産)をめぐる相続問題です。

たとえば、戦国時代の九州においては、天文19(1550)年に豊後・大友家で起こった家督争い(「二階崩れの変」)がよく知られるところ。

当主・義鑑が、家督を正室の子である嫡男(義鎮)ではなく、側室の子となる三男(塩市丸)に譲ろうとしたことで、家中の派閥が二分して抗争を展開します。

これにより、三男と生母、さらには当主・義鑑までもが命を落とし、その後、家臣筆頭によって嫡男が家督に擁立されたことで、一連の騒動は収束しました。

郷土で起こったお家騒動としては、弘治3(1557)年の高祖城・原田家の例が伝わります。

これは、原田家・四男に家督を継がせたい老臣の謀略によって、謀反の罪を着せられた嫡男と三男が非業の死を遂げるに至ったといいます。

さらに、永禄8(1565)年には志摩郡の在郷土着の武家である泊家でも、遺領をめぐって、兄弟間の激しい骨肉の争いが起こったといいますが・・・

ここからは、次の流れで話を進めていきましょう。


 ・ 志摩郡の「泊」と「泊氏」
 ・ 泊城について
 ・ 泊家のお家騒動
 ・ 泊氏のお家騒動から「戦国志摩の権力階層」がみえる


(泊周辺 2018年2月撮影)




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志摩郡の「泊」と「泊氏」


旧志摩郡の内であった「泊(とまり)」は、糸島の地理的中心部に位置する。

この辺りは、「津和崎」「油比」そして「泊」と、水にちなんだ地名が続く。

これは、現在泉川(雷山川)が流れる一帯に、往古西の加布里から「糸島水道」と呼ばれる海峡が伸びていたことを示すものであり、「泊」はその北端にあたる船の停泊地だったと考えられる。

この地名を氏名(うじな)とする「泊氏」は、戦国の頃には「志摩七党(志摩郡衆)」の一として、北部九州の太守といわれた大友方に与した一族である。

永禄年間(1558-1569年)、中国地方最大の勢力を誇った毛利氏は、筑前博多に侵攻して、迎え討つ大友勢と激戦を繰り広げた。

この合戦で、柑子岳城の臼杵新介鎮続とともに功を挙げた志摩郡衆の中に、小金丸氏や古庄氏らと並んで「泊中務少輔(鎮家)」の名がある。

また、その子「又太郎」は柑子岳城の在番警備にも尽力し、元服の時には、大友義鎮の嫡男である義統(よしむね)から「統」の字を拝領している。

しかし、元亀3(1572)年、志摩郡・臼杵勢と怡土郡・原田勢が池田川原で激突した合戦において、「又太郎」は討死し、「泊中務少輔鎮家」も自刃した。




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泊城について


『筑前国続風土記』によると、泊氏の居城(館)となる「泊城」は、「村より巽(南東)」にあって、「泊中務少輔鎮家」が在城したとされる。

同区には、南東に緩やかな丘陵があり、「城崎」という通称地名が残っていることから、ここが泊氏の城館があった場所だと考えられる。

一方で、泊交差点から馬場方面に北進する道途中の山際にも「タチ(館)」と呼ばれる場所があり、地理的条件からも、ここに泊氏一族の主要な居館があった可能性も否定できない。

また、城には「泊中務少輔鎮家」より前は「泊美作と云し者」が在城していたとある。

泊美作(みまさか)は、元は源姓で「新羅(しんら)三郎」の末裔だという。

三人の男子に恵まれたが、永禄8(1565)年に美作が病死すると、その遺領をめぐって、兄弟らは激しく武力衝突を繰り返す「お家騒動」に発展した。




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泊の南東にある丘、ここに泊城があったという。西側から丘上は確認できる。
↓にご覧の通り、現在は平地である。総面積は5000平米以上はあるだろうか。

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泊家のお家騒動


  十・・・・十五・・

  俺が十町で・・幼子の弟は十五町・・・

  継母の籠あってのこととはゆえ、これでは、俺の立場はないも同じ。

  父上の遺言といえど、とうてい承服できぬ。

  長い病魔の床にあって臨終の間際、頭が朦朧としておったに違いない。

  それに兄上も兄上よ・・

  これから当主となる男が、こげな筋の通らん分与で何も思うとらんのか・・

  昔からそうやった・・兄上は、肝心なところで腑抜け。

  あァ震えがとまらん。この屈辱、いかにして・・・


病床にあった志摩郡の泊家当主、泊美作が息を引き取ったのは、永禄8(1565)年秋の終わりのことである。

亡き美作の枕元には、成人した二人の息子、そして若い後妻が控えている。

後妻の腕に抱かれた幼い男子は、美作の末子である。

先代の死に目にあって、両拳を膝の上で握り、唇を噛みしめる長男の駿河。

ただ頭を垂れて、肩を細かく震わせる二男の兵庫助。

幼子を抱えて静かに涙を流す、後家となった妻。

その母親の腕の中で、小さな三男はすやすやと眠っている。

美作は亡くなる前に、遺領分与について次のように言い遺していた。


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これに不服なのは、二男・兵庫助である。

長男に次いで多くの遺領を受けとるべきこそは、二男である自分。

年端もいかない弟よりもずっと少ない配分は、耐えがたい屈辱であった。

本来憎むべき相手は遺言を残した父親だが、すでにこの世にいない。

幾重にも渦巻く憎念が、弟への殺意に転じるのに時間はかからなかった。

父親の四十九日の忌が明けた年の瀬、村内の別館にいる兵庫助は、新しく当主となった兄の城館へ赴いて、次のように語った。


 「兄上、今度の所領分けについて、俺はどうしても納得いかぬ。

  二男の俺が十町で、三男の乳飲み子に十五町とはいかがなものよ・・

  俺はあれ以来、夜もろくに寝付けん。

  どこの馬の骨とも知れぬ継母の産んだ子。

  幼気な弟とはいえ、所詮異母の弟。

  血を分けた兄弟などと思ったことは一度もない。

  悪いが・・・弟には死んでもらおうと思うとる。

  そうなれば、継母もこの家にはおられなくなろうから、

  あの女の預かった新田と合わせて、二十町の田地は守られることになる。

  泊家の所領は、本来にして受け継ぐべき者が受け継ぐようになっとる。

  そう思いませぬか、兄上」


ただごとでない弟の腹案に驚いた兄・駿河であったが、負の感情に毒されやすく直情径行、そんな弟の御しがたい一面を誰よりも知っていた。 


  弟なりに泊家当主となった兄の自分を立てて、

  兄弟二人で末弟の分地を預かろうと言うておる


ならば、悪い話ではないと、怒りに打ち震える弟に、駿河は賛同の意を示してしまったのである。


そして・・・その夜更けて、泊城にけたたましい悲鳴が上がった。

兵庫助は予告通り、眠っている腹違いの弟を慈悲なく刺殺すると、わが子を亡きものにされて泣き叫ぶ継母を城から追い出してしまったのである。

これで兵庫助は、幼弟の十五町、継母の新田五町の所有権を手に入れたも同然になった。


それからしばらく経って、兵庫助のいる館の門を叩く者がある。

その後何も連絡をよこしてこない兵庫助を、不審に思った長男・駿河が遣った使者である。

ところが、こともあろうに兵庫助は、二度目に訪れたこの使者を斬り捨ててしまった。


  これは俺が自ら手で取り戻した泊家の領地。

  何もしておらん兄上にまで分与の世話をしてやる理由はどこにあるというのじゃ。


さすがの駿河もこれには怒り心頭で、すぐに家人を率いて兵庫助の館に向かった。


  舐めるでないぞ、兵庫助。

  弟といえど、そちが一族惣領である俺に逆らうというのならば、こちとて一切の容赦はせぬ。

  情けを捨てて、全力で叩き潰してやろうぞ。


兵庫助の館前で繰り広げられる激しい戦い。

互いの勢は一歩も引かず、終日散々に戦った。

夜の帳が降りても決着がつかず、駿河は一旦帰城することになった。


  こうなれば、どちらかの身が滅ぶまでじゃ。

  あの程度の小勢では互いに勝負がつかん。

  かくなる上は・・・


それから近隣の「溢者共」を集めた兵庫助は、村内の桂木寺(けいぼくじ)辺りに館を構え、十分な兵糧(食物)を備え置いて、ここを本拠に陣を敷いた。

これで二百人規模の勢をもって、反撃の城攻めを開始したのである。

城に火を放たれた駿河とその家人たちは、ともに再び命を賭して防戦するも、遂に城は落とされて、駿河は馬場方面へ後退した。

なんとか泊を奪還しようと、駿河は近くの郷士たちに援助を募る一方で、勢いに乗じた兵庫助は、泊に新たに城を築き、さらに悪党どもを取り入れて、近隣の領地までも押領しようと横暴を働く。

この事態を受けて、志摩郡の政所職を司る柑子岳城城代、臼杵新介鎮続(うすき しんすけ しげつぐ)も黙ってはいられない。

臼杵氏は、両者に停戦を命じるため、与力被官の関係にあった志摩群衆の由比紀伊守政長、小金丸九郎秀種に加えて、波多江上総助鎮種の三名を使遣した。

これにより、駿河は元岡村の元岡右衛門大夫の館に押籠められて、兵庫助は馬場村の馬場越前の館内で禁固の身となった。

その後、臼杵氏は、主君である豊後国・大友氏に事の始終を注進するため飛脚を走らせて、その下知(げじ)を待った。

これを知った大友義鎮(宗麟)は強く憤慨して、泊兄弟を豊後に召し寄せた。

もとより惣領である駿河を支柱に結合を強くすべき一族兄弟間、その抗争である。

罪状は極めて悪質であり、周囲にもたらした影響も重大とし、そのまま駿河は追放処分なり、兵庫助は斬罪に処された。


その後、当主不在となった泊家の所領は、駿河と兵庫助の合わせて二十六町が、駿河と伯父・甥の関係にあった由比紀伊守政長に預けられた。

継母と三男の所領十九町については、それに新田を加えて、肥前国・松浦党の浪人であった岡口出雲が賜り、岡口から泊に姓を改めて泊家を引き継ぐことになった。

出雲はこの時すでに老年だったため、大友軍攻防の戦地へは、嫡男の「中務少輔鎮家」が赴いている。




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泊氏のお家騒動から「戦国志摩の権力階層」がみえる


以上が『筑前国続風土記』の「泊村古城」の項に記された、泊家お家騒動のあらましである。

一連の騒動は、泊美作が病死した永禄8(1565)年秋以降に始まって、臼杵新介鎮続が柑子岳城・城代の任を解かれた元亀2(1571)年冬までの期間に起こった出来事と考えられる。

新介鎮続の城代降任は、この騒動の責任を取るためともいわれている。

大友氏の志摩領支配の拠点として築かれた柑子岳城、その城代(郡代)として派遣されていた臼杵氏は、郡内の在地武士(志摩郡衆)を統率する立場にありながら、仲裁に入る時期や主君への注進が遅れたためであろう。

騒動後、当主不在となった泊家には、肥前国・松浦党の浪人に家名と所領の一部を継がせて、お家の存続をはかっている。

これは、支配者層の臼杵氏や大友氏にとって、泊家が柑子岳城の「在番」をはじめ、各地の攻防戦に必要な戦闘員を工面する「在地武士」であり、農耕や軍事に必要な物資と施設を備える「在地小領主」だったからである。




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泊一区にある「桂木寺」は、曹洞宗の福岡・金龍寺の末寺で、創建の年は不明である。現在地には安永5(1776)年に移ったということなので、下記の仮説は無効

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境内の後ろは、現在は完全に均された平地6000平米。ここが、城攻めの時に、兵庫助が館を構えて陣を敷いた場所だろうか

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桂木寺前の通りを西に突きあたった山際が「タチ」と呼ばれる場所で、ここも戦国・泊氏と深い関係があった場所と思われる

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泊の西側(泊二区)には、安産に効験があるといわれる「泊産安の井戸(金水)」がある

posted by 由比 貴資 at 15:55| Comment(2) | 糸島伝説
この記事へのコメント
かなり詳しく書かれており参考になりました。いつか現地に行ってみようと思います。
ありがとうございました。
Posted by 泊 治彦 at 2021年01月05日 11:58
泊さま

コメントありがとうございます。

参考にしていただきうれしいです。

泊は、周辺地区と同じく静かな集落といった趣きですが、高台が点在しており、思わぬところに素敵な景色が広がっているかもしれません。
Posted by 由比 at 2021年01月06日 21:16
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