◯ 糸島最大の豪族・原田氏と東の正八幡宮
今回は、「糸島最大の豪族・原田氏と東の正八幡宮」というテーマでお送りします。
このブログでは、糸島の歴史や伝説について、時に掘り下げつつ、できる限り短くわかりやすくして発信しています。
中世の糸島史を語る上で、一番欠かすことのできない存在といえば、それはもう「原田氏」でしょう。
原田氏は、糸島地方を苗字の地とする「波多江氏」や「小金丸氏」の元祖でもあります。
ここでは、中世を通して土着の最大勢力であった原田氏について、初期の氏と関係が深い東の八幡宮を中心に、主だった氏の動向を編年でまとめました。
・ 原田氏が建立した八幡宮
・ 東の正八幡宮について
・ 糸島最大の豪族・原田氏とは
(東・正八幡宮 2019年1月撮影)
原田氏が建立した八幡宮
原田氏は「大蔵」を本姓とし、中世北部九州の国人衆である秋月、波多江、深江、小金丸、江上、高橋、三原、原、田尻の各氏らの祖である。
原田氏が糸島(旧怡土郡)を本拠にしたのは鎌倉時代以降だが、古代より怡土郡内には、原田氏の領する荘園「原田庄」が存在していた。
そして同地には現在まで原田氏が建立した八幡宮がある。
戦国時代末期には糸島全域を掌握するようになった原田氏が、糸島へ土着する足がかりとなった八幡宮である。
東の正八幡宮について
東の照松にある正八幡宮は、かつて原田庄の総社であった。
原田庄は、現在の東、神在、岩本、加布里、田中、浜窪、松末、片山、武、松国、瀬戸、長石、本の13ヵ村一帯と考えられている。
当宮の縁起には、応和3(963)年に大蔵泰種が自領の守護神を祀るため、山城国(京都)の男山八幡を勧請したといわれている。
その子孫・原田種直は、平安末期の源平合戦で平氏に与して活躍したが、平氏滅亡とともに、領地を没収されて鎌倉に幽閉された。
建久8(1197)年に赦免されて帰国した種直は、これは信仰する八幡宮の加護であったとして東村に居住し、当宮に奉祀したという。
種直が放免されたのが9月だったため、9月13日を祭日にしたといういい伝えも残る。
当宮の南西30メートルには、種直の碑が立つ墓がある。
(参考:『怡土志摩地理全誌1・怡土編』、八幡宮由緒掲示板)
正八幡宮の境内
正八幡宮の由緒掲示板は境内入ってすぐ
境内より南隣りに300メートル。鬱蒼と繁る木々の陰に五代・種直の墓はある
糸島最大の豪族・原田氏とは
●原田氏の起こり
原田氏の祖は、大和朝廷の官物を納める蔵を管轄する仕官であった「大蔵氏」である。
大蔵氏の九州下向のきっかけは、天慶3(940)年に勃発した藤原純友の反乱で、その鎮圧に源経基や小野好古らとともに名を馳せたのが初代・大蔵春実であった。
これより征西将軍、さらに筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬の管領職に補任された春実は、大宰府に近い筑前御笠郡基山、後に同郡原田に居住するようになって、以降「原田氏」を称するようになる。
この頃には怡土郡の荘園の一つに原田氏が領する「原田庄」があって、応和3(963)年2代・原田泰種がこの地に総自領の守護神として八幡宮を建立したのは、前述のとおりである。
●刀伊の賊徒撃退に奮戦
寛仁3(1019)年春、女真族(満州民族)の海賊集団が壱岐、対馬に続けて糸島水道から博多湾沿岸を侵攻した。
これには大宰権帥・藤原隆家を総指揮官とする九州武士たちが賊徒撃退に奮闘した。
その中に大宰大少監・大蔵種材(種村)の名がある。
●平安末期、平氏滅亡と原田氏
平安時代末期、源平の争乱で平家に与して活躍した原田種直は、平清盛の長男である平重盛の推挙にて大宰少弐に任官されて、九州における平氏勢力の基盤を築いた。
寿永4(1185)年壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡すると、原田氏の所領は、鎌倉で政権を握った源頼朝に没収されて、種直は鎌倉・扇ヶ谷に13年間幽閉されることになる。
●原田氏の再興
建久8(1197)年赦免されて帰国した種直は、子の種成と高祖神社社務の上原兵庫を頼って怡土郡の一部を掌握し、かつての原田庄の八幡宮辺りを拠点に原田家再興を図った。
建長元(1249)年には原田種継・種頼父子は怡土城の遺構を利用して高祖山に高祖城を築き、これより代々ここを本拠にした。
●元寇での奮戦
文永11(1274)年は異国の侵攻という国家の非常事態である。
蒙古・元軍は、数百艘の軍船をもって壱岐・対馬を壊滅させて、博多湾に現れた。(文永の役)
九州の武士団はこれを撃退すべく、少弐・大友の両氏を総大将に戦ったが苦戦を強いられる。
原田種照・種之兄弟も軍勢を率いて奮戦するも、種照が箱崎付近で戦死した。
さらに、弘安3(1281)年の二度目の蒙古襲来(弘安の役)では、原田種之・種房親子が今津での防戦に活躍して、この武功で種房は大宰大監に任じられている。
●足利尊氏とともに戦う
鎌倉幕府滅亡後、原田種時は九州に下ってきた北朝・足利尊氏(武家方)を助勢して、多々良川で南朝・菊池勢(宮方)に圧倒的不利な状況下においての大勝に貢献した。
さらに、その勢いに乗じて再び東上する尊氏軍に加わり各地を転戦している。
●周防の大内氏に従う
永享年間(1429-1441年)頃より、少弐・大友の両氏と周防の大内氏が激しく対立するようになる。
永享3(1434)年、大内盛見の軍勢に立花山城(糟屋郡)を追われた大友持直は、攻め入る大内勢を二丈岳城(怡土郡)で迎え討った。
この戦いで原田種泰は大内方として援戦している。
応仁元(1467)年より11年間にも及ぶ応仁の乱が始まると、原田種親は大内氏に従って、波多江種盛、小金丸弘兼らとともに上洛し、西軍・山名宗全方として参戦した。
●志摩郡水崎勢との攻防戦
永正年間(1504-1521年)頃から、怡土郡原田領の軍勢と志摩郡大友領の水崎治部盛正らの軍勢の攻防戦が繰り返されるようになる。
その戦いは永正4(1507)年から天文7(1538)年の間に六度にも及んだ。
天文2(1533)年、大内氏の家臣・梅月頼致とともに原田氏率いる軍勢が一気呵成に攻め込み、柑子岳城をはじめ、水崎城、泊城、馬場城を攻略した。
その後、大友氏と大内氏の和睦によって城は大友方へ返還された。
●大内氏の滅亡と原田氏の受難
天文20(1551)年大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反によって滅亡すると、天文22(1553)年には陶・大友連合軍の猛攻にさらされた高祖城はあえなく落城。
原田種隆は一時的に蟄居を余儀なくされるも、弘治元(1555)年毛利氏が陶氏を破った厳島の戦いで、原田隆種は毛利方に従軍して活躍し、これを契機に勢力を盛り返した隆種は高祖城の主に復帰した。
●原田家のお家騒動
弘治3(1557)年、原田家老臣の本木道哲が隆種の四男・親種に家督を継がせようとして、長男・種門と二男・繁種に謀反の罪を負わせて岐志の南林寺で謀殺した。
謀略が露見すると、道哲は隆種によって上意討ちにされた。
●西一族を滅ぼす
永禄10(1567)年、それまで配下にあった西氏が不遜の態度を示したので、原田隆種は、納富氏と深江氏を総大将に、旗振山・筒城の西重国をはじめ、西一族在城の波呂城、宝珠岳城をことごとく討ち破り、西一族を滅亡に追い込んだ。
●原田氏が糸島全土を領有する
元亀3(1572)年正月、怡土郡・原田隆種は毘沙門詣の帰路、周船寺の山崎で志摩郡・臼杵勢の急襲を受ける。
これを防戦し難を逃れた隆種は、同月に平等寺参詣中の臼杵進士兵衛鎮氏を攻めた。
そのまま助勢が助勢を呼んでの両軍千人入り乱れての激突となったが、地の利を得た原田勢の圧勝で、鎮氏とその家臣たちは潤の平等寺にて自刃した。
これ以降、志摩群衆の中にも原田方へ寝返る者も出た。
さらに、日向国耳川の戦いで島津氏に大敗した大友氏の勢力が大きく後退したため、この機を逃すまいと原田氏は柑子岳城を攻略し、これより糸島全土を領するようになる。
●原田氏の滅亡とその後
天正14(1586)年から始まった豊臣秀吉の九州征伐に際し、最後の当主・原田信種は投降が遅く、これを理由に領地を没収されて高祖城も取り潰しになった。
信種は加藤清正の配下となって、朝鮮出兵で渡航出陣するも現地で戦死している。
信種の子・原田嘉種は、主君の清正と対立し追放処分となったため、唐津藩・寺沢広高の仕官を経て、会津藩・保科正之に仕えた。
(参考:『筑前国続風土記』、『戦国糸島史』)




@二男・繁種は、三男の間違いです。二男は、原田次郎種吉(草野家へ養子となり、草野鎮永(しずなが)を名乗る)である。
A兄弟が岐志の南林寺で謀殺されたとあるが、「追手に追い詰められて、現在の南林寺・門前北下(地名・七反田)の井戸端で自刃した」が、正解です。
B原田兄弟が自刃した当時は、まだ寺は存在しておらず、兄弟が自刃した翌年の1558年に、父親の隆種は、高祖の「太祖山・金龍寺」(曹洞宗)に二子の冥福を求め、この地に「金福寺」(曹洞宗)を建立した。その後、「金福寺」は、原田家の滅亡と共に庇護を失い、やがて名のみ残れしとなる。
C「南林寺」は、1648年福岡藩・二代藩主、黒田忠之が二子の悲運を思い、「金福寺・址」に、上座郡宮野村八坂「育王山・南林寺」(曹洞宗)を移築し、「大龍山・南林寺」と改号し、二子を弔った。
なお、上座郡宮野村八坂には、改号・改宗した「医王山・南淋寺」(真言宗)を再建している。
以上です。
返信が遅くなり申し訳ございません。
ご丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
由比
糸島に立ち寄れる事を楽しみにしております。
太宰府の役職を世襲していた太宰府跡地には訪れましたが、糸島については後に知りました。
後漢皇帝から始まり今に至るまで家系図があり、種直氏が屋敷に皇族を匿った事なと、親種は最初の勘兵衛でありました。三河では勘兵衛以外のミドルネームを名乗る事もありました。
糸島の方にお越しになるんですね。
糸島には筑前原田氏ゆかりの地が多数あります。
種直墓の傍では、東正八幡宮のほか、墓石より西300メートルにおそらく種直時代の居館跡地(推定)があります。(東五反田遺跡)
周囲は宮地岳などの低山に囲まれ、また長野川の清流が流れる穏やかな場所です。
高祖築城以前の当時の原田氏に思いを馳せるスポットとしても最適のひとつではないでしょうか。
>原田芳行さん
>
>以前書き込みしました、種直、親種の末裔の原田勘兵衛でございます。三河武士として、松平清康から徳川家光まで旗本として仕えた勘兵衛のミドルネームを借りております。種直氏の墓参りを兼ねて糸島に訪れる予定ですが、立ち寄るべき所があったら教えて貰いたいと思います。筑紫野市の筑紫神社は参拝の予定をしております。
>糸島に立ち寄れる事を楽しみにしております。
>太宰府の役職を世襲していた太宰府跡地には訪れましたが、糸島については後に知りました。
>後漢皇帝から始まり今に至るまで家系図があり、種直氏が屋敷に皇族を匿った事なと、親種は最初の勘兵衛でありました。三河では勘兵衛以外のミドルネームを名乗る事もありました。
東正八幡宮は参拝させて頂きます。
何かに導かれるように糸島に参りたいと思うようになりました。以前何も知らず九州に訪れた時、太宰府に行かず、通り過ぎざまに、とても心残りな想いをずっと引きずっていたのを思い出しました。
その後太宰府に参り愛知に帰ると、原田家の事でいろんな話が舞い込んできました。
そこで、九州との繋がりを認識しました。太宰府参りが昨年の話しなので、歴史を紐解いてまだ浅いですが、何故か繋がりを探してしまいます。
今度訪れるのは短い時間となりますが、あらためてゆっくり行けたらいいと思います。
慌ててしまいました。
糸島半島にも応神天皇(誉田別尊)と神功皇后がセットで祀られている八幡宮がいくつかあるようです。
>原田勘兵衛さん
>
>誉田別尊は八幡宮で祀る象徴的な柱なんですね。
>慌ててしまいました。
古くは千手観音などの仏像があって近所のお寺に預けてあります。
家康が長久手の合戦い以前に甲斐、駿河に領地を広げて行くため、早くから自分の城を廃城にしており、お守りする為付き添ったようです。
徳川家の末裔の方が仰ってましたが、家忠、家光が家康の後継が出来たのも三河武士のお陰であったとはっきり申しておりました。
小牧長久手の合戦は関ヶ原と同等かそれ以上の戦とも言われております。
同じ三河の原田種一族も考え方が全く違うことが窺えます。どこで繋がっていたかもはっきりしません。
そちらがわの原田種さんの末裔は系図がないけど、熱い思いは自分と比較にならないくらいあり、九州に想いをめぐらせております。
又、連絡させて頂きます。
当時の武家は大小問わず、みずからのお家存続のため、究極ともいえる選択を迫られる状況があったようですね。
その時々で、その家(当主)はどのように思考をめぐらせ、決断をしたのか、想像するのも面白いと思います。
福岡には美味しいものもたくさんあります^^
たくさんコメントいただき、ありがとうございます。
>原田勘兵衛さん
>
>また三河の原田種さんですが、こちらの城の種さんは松平に仕えましたが、もう一つの城の原田種さんは旗本の誘いを断り、小牧長久手の戦いでは、秀吉に徹底交戦し、徳川四天王の酒井氏の力を借りて持ち堪えたようです。
>小牧長久手の合戦は関ヶ原と同等かそれ以上の戦とも言われております。
>同じ三河の原田種一族も考え方が全く違うことが窺えます。どこで繋がっていたかもはっきりしません。
>そちらがわの原田種さんの末裔は系図がないけど、熱い思いは自分と比較にならないくらいあり、九州に想いをめぐらせております。
>又、連絡させて頂きます。
又、筑前國志宇との記載が系図にあるので志摩と読むものと考えておりました。いかがなものでしょう?
原田勘兵衛さまご近所にあるという11面観音ですが、近世では庚申信仰そのものはほとんど全国的に浸透した信仰であるため、それだけでは判断が難しいように思います。
筑前国は糸島に限っては「志宇」なる地名はぱっと思い当たりませんので、類推するに「志摩」か、あるいは「志登」でしょうか。
>原田勘兵衛さん
>
>近所のお寺にある11面観音ですが、八幡宮と一緒に糸島より持って来ていると思われます。11面観音の裏には庚申侍と書かれているようです。そちらでは庚申信仰があると拝見したように思います。
>又、筑前國志宇との記載が系図にあるので志摩と読むものと考えておりました。いかがなものでしょう?
庚申侍でなく庚申待と資料にありました。失礼しました。
また何かわかりましたらよろしくお願いいたします!
>原田勘兵衛さん
>
>確かに11面観音は親種の数代あとの景種が…と資料にありましたので、九州からの観音像ではないかもしれません。景種はちょうど家康公に仕えていた方であります。
>庚申侍でなく庚申待と資料にありました。失礼しました。
いつも大変お世話になっております。
来月末に東の正八幡宮に参拝いたします。
その時に何か繋がりがあるように願う為、みよし市の歴史で原田家の十一面観音の資料と写真を納めようと考えております。神主さんがいらっしゃるか分かりませんが、参考になればと思います。
十一面観音は丁度家康公に仕えた原田景種からの像となり、大河ドラマでも徳川家康か始まるようで、景種氏も激動の時代だったと考えられるので、一度資料など見て頂けたらと思います。
後、糸島ゆかりの物などあれば、持ち帰りたいと思います。繋がるといいな。
いよいよ来月糸島に来られるのですね。
ちょうど彼岸花が長野川一帯を紅く彩る頃でしょうか。
筑前原田氏との関連を十一面観音から探求とは、興味深いですね。
お力になれるかわかりませんが、ご報告楽しみにしております。
>原田勘兵衛さん
>
>原田勘兵衛でございます。
>いつも大変お世話になっております。
>来月末に東の正八幡宮に参拝いたします。
>その時に何か繋がりがあるように願う為、みよし市の歴史で原田家の十一面観音の資料と写真を納めようと考えております。神主さんがいらっしゃるか分かりませんが、参考になればと思います。
>十一面観音は丁度家康公に仕えた原田景種からの像となり、大河ドラマでも徳川家康か始まるようで、景種氏も激動の時代だったと考えられるので、一度資料など見て頂けたらと思います。
>後、糸島ゆかりの物などあれば、持ち帰りたいと思います。繋がるといいな。
古い絵が奉納してあり、歴史を感じました。
種直公の墓石にも参ることが出来て感動し、涙が溢れました。新しい花も手向けてあり、嬉しく思いました。自宅に帰り本家に伝えた所こちらも涙を浮かべ喜んでいらっしゃいました。
訪れる事が出来て良かったです。
庚申塚の石碑が見受けられたので、こちらの観音様との繋がりがあるのかな?と思いました。
種直公の囚われ前の屋敷を探しましたが、よくわかりませんでした。確か安徳の地名となっておりましたが…糸島市では無かったですね!
正八幡宮の社務所に愛知県みよし市の歴史資料を置いて置きましたので、もしよろしければ見てみてくださいませ。三河原田家の系図も記載されています。いろいろありがとうございました。
種直公の墓は私も以前二度訪ねておりますが、いずれも手厚く献花されており、ご類縁の方が絶えずいらっしゃっているのだなという印象です。
種直公の囚われ前の屋敷については、おおよその位置は正八幡宮から東に200メートルで、現在は田畑になります。
確認できる遺構はないようですね。
いずれにしても四方小山に囲まれた平地(原田庄)にあった館のようです。
次回近くを通った際には、ぜひ社務所を訪ねたいと思います。
こちらこそありがとうございました。
>原田勘兵衛さん
>
>東の正八幡宮に参拝してまいりました。
>古い絵が奉納してあり、歴史を感じました。
>種直公の墓石にも参ることが出来て感動し、涙が溢れました。新しい花も手向けてあり、嬉しく思いました。自宅に帰り本家に伝えた所こちらも涙を浮かべ喜んでいらっしゃいました。
>訪れる事が出来て良かったです。
>庚申塚の石碑が見受けられたので、こちらの観音様との繋がりがあるのかな?と思いました。
>種直公の囚われ前の屋敷を探しましたが、よくわかりませんでした。確か安徳の地名となっておりましたが…糸島市では無かったですね!
>正八幡宮の社務所に愛知県みよし市の歴史資料を置いて置きましたので、もしよろしければ見てみてくださいませ。三河原田家の系図も記載されています。いろいろありがとうございました。
種直公の囚われ前は安徳台の岩戸の庄と認識していたのですが、正八幡宮から200mにあったのでしょうか?鎌倉より戻ってから、糸島に定着したものと考えていたのですが…何かご存じでしょうか?お分かりでしたらお教え願います。
>種直公の囚われ前は安徳台の岩戸の庄と認識していたのですが、正八幡宮から200mにあったのでしょうか?
>鎌倉より戻ってから、糸島に定着したものと考えていたのですが…何かご存じでしょうか?
おっしゃる通りだと私も認識しています。
春種〜泰種 御笠郡原田に居住
種資〜種直 御笠郡原田を本城に、那珂郡岩門の館に居住
平家滅亡、種直ら鎌倉の獄舎に幽閉される
建久元(1190)年 赦免されて「怡土庄の内」を安堵される
建長5(1253)年 種次・種頼父子によって高祖城が築かれる
おそらく「正八幡宮から200mにあった」居館は、幽閉の身を解かれた原田氏が高祖山に築城、ここを本拠とするまでの60年間に利用したものではないでしょうか
信種の娘で、野北の里に落延び、魚の行商をし落石神社に祀られておられるということはわかったのですが、それ以上のことが分からず。
何かご存知だったりしますでしょうか。
信種の娘で、魚商、落石神社に祀られておられるということはわかったのですが、それ以上のことが分からず。
お問い合わせについては、下記URLにて取り上げたことがございます。
http://nekomasho-ji.sblo.jp/article/190104571.html
あくまで伝説的情報になりますが、参考になれば幸いです。