2019年07月31日

戦国時代の糸島について・後編  2019年7月

fukaejinja_00.JPG




◯ 戦国時代の糸島について・後編

 ・ 糸島戦国史年表<更新>
 ・ 室町幕府滅亡、その時九州では
 ・ 原田了栄の悲嘆と極楽寺の再興
 ・ 大友宗麟の大敗と大友領内の反乱
 ・ 第2次 生の松原合戦 原田氏、大友軍に再び勝利する
 ・ 第3次 生の松原合戦 志摩郡も原田氏統治下に
 ・ 鹿家合戦 原田氏、波多氏の怡土郡侵攻を防戦する
 ・ 島津勢、北部九州侵攻を強める
 ・ 秀吉の九州平定始動と高祖落城
 ・ 豊臣秀吉の九州平定と原田信種のその後
 ・ 深江神社と秀頼誕生の報

(深江神社/松国の太閤道 2019年7月撮影)




fukaejinja_05.JPG




糸島戦国史年表<更新>

今回の糸島中世史は、前回の室町時代・前編に続いて、その後編です。
室町幕府が滅亡してから豊臣秀吉の朝鮮出兵あたりまでをまとめてみました。


itoshimasengokunenpyo.jpg




fukaejinja_01.JPG
fukaejinja_04.JPG
太閤伝説を残す深江神社




室町幕府滅亡、その時九州では

元亀4(1573)年7月、15代将軍・足利義昭が敵対する織田信長に京都を追放されて、
足利尊氏創設以来の室町幕府は、この時点で事実上滅びた。
中央では将軍不在のまま政権を握った織田信長が、天下人への歩みを急速に進めていたが、
これに先立って南部九州では、元亀元(1570)年に島津義久が薩摩国統一を実現すると、
さらに禰寝・肝付・伊地知氏ら在地勢力を次々と屈服させて大隅国も勢力下に置いた。
天正4(1576)年には、残る日向国も高原城・伊東氏を攻略して、
これより南部九州3国は島津氏の領するところとなった。
日向国を追われた伊東義祐は、大友宗麟を頼って豊後国に亡命したため、
北上に勢力を拡張してきた島津勢を危惧した大友氏は、日向国への出陣を決定する。




大友宗麟の大敗と大友領内の反乱

天正6(1578)年10月、大友宗麟は数万の勢を動員して、
肥後口と豊後口の二方より日向国に軍を進めた。
志賀道輝・朽網鑑康・一萬田鑑実・佐伯入道・田原親賢・田北鎮周ら大友家重臣の諸将ほか、
志摩郡柑子岳城の前城代にあった臼杵鎮続も参戦。
九州制覇を賭けた南北両軍による激突は、はたして大友氏の決定的ともいえる大敗北に終わる。
この敗戦で大友氏は多くの要となる戦力を失って、北部九州の領国内では反乱が勃発。
筑前国は秋月氏・宗像氏・麻生氏・筑紫氏らが、
豊前国では城井氏・長野氏・千手氏らが次々と反大友方に寝返った。
また、肥前国の龍造寺隆信はこの内乱に乗じて大友領への侵攻を強めており、
高祖城・原田了栄も龍造寺氏の誘いに応じて、大友方の国人・地侍衆の駆逐に働いた。




原田了栄の悲嘆と極楽寺の再興

天正2(1574)年4月、池田川原合戦での臼杵氏自刃の責任追及のため、
主君・大友宗麟の命によって、高祖城・原田親種は自刃した。
これにより嫡男を失った同城主・原田了栄の悲憤は大きく、
天正11(1582)年には遠祖・原田種直の開基した天台宗極楽寺を再々興し、
曹洞宗に改めて萬歳山と号し、これを親種の菩提とした。
これが現在の二丈波呂にある龍国寺である。
原田親種は了栄の三男であったが、この兄が肥前国鬼ヶ城・草野家に養子入りしており、
この二男(了栄の孫)は肥後国・龍造寺隆信の人質にとられていた。
そこで、原田了栄は龍造寺氏に願い出て、孫を佐賀にて元服させると、
「原田信種」と称して原田家の家督を継がせた。




第2次 生の松原合戦 原田氏、大友軍に再び勝利する

天正7(1579)年7月、反大友方に味方する高祖城・原田了栄に対して、
大友家重臣の戸次道雪・高橋紹運・志賀道輝が牒合して高祖山の城攻めを計画した。
早良郡安楽平城にて軍議を起こし、同城主・小田部鑑湖の献策も採り入れて、5,000の軍勢をもって出陣。
立花氏率いる4,000の兵が姪浜から海路を伝って横浜へ上陸する一方、
陸路からは小田部・大津留氏ら1,000の兵を二分して白石坂・日向峠より攻め込む作戦であった。
対する高祖勢は、原田藤種・有田因幡守に400人を添えて白石坂に、
深江豊前守・富田大膳亮を将とする500人を日向峠に配置した。
さらに、原田種守・波多江種賢・水崎長元・鬼木清元・笠進ら3,500を鎮守の曲輪に、
原田祐種・中島治部左衛門・池園播磨守ら400の兵を如意輪山に控えさせて守備を固めた。
横浜に上陸した立花勢が今津潟を斜めに進行しているとの報を受けた原田了栄は、
ただちに鎮守の曲輪に配した兵を小金坂に集めると、自ら曲輪に立って戦闘の指揮を執った。
まもなく小金坂で立花勢と激突するも、これを如意輪山に布陣する高祖勢が横から突いたので、
立花勢はたまらず周船寺の河原に退却したが、そこに岩隈・波多江・松隈・浦志ら高祖勢が追撃をたたみかける。
さらには北浜の潮干潟から横浜までの退路を断たれたため、立花勢は船着場へ戻れずに、
長垂山を越えて別軍に合流しようとしたが、この時高祖勢の一人が長垂山から鉄砲を撃ったので、
やむなく立花勢は生松原を東に退くほかなかった。
他方、白石坂・日向峠より攻めた小田部・大津留氏らの勢も功を奏さず安楽平城に敗走し、
まさに原田了栄以下の戦略的勝利ともいうべき内容で、戸次道雪・高橋紹運・志賀道輝らを退陣させた。
これ以降、原田了栄は早良郡西部の地も掌握するようになったという。




第3次 生の松原合戦 志摩郡も原田氏統治下に

生の松原における対大友軍に連勝し、ますます威勢をふるう原田了栄は、
志摩郡大友方の一掃をはかって柑子岳城を攻囲した。
同城には、天正5(1577)年より大友一族の木付鑑実が城督として入部しており、
家臣らとともに籠城し抵抗したが、やがて兵糧(食糧)不足に陥った。
このため、同年(1579年)8月には大友家重臣の戸次雪道が兵糧補給を目的に、
後藤隼人佐以下1,500人の軍勢を志摩郡に派遣。
しかし、その途中で鬼木・波多江・小金丸ら高祖勢1,500人とみたび生の松原にて対陣した。
結果は両軍痛み分けながら、柑子岳城への兵糧入れは実現せず、
同年冬には兵糧も尽きて、木付鑑実は開城し糟屋郡立花山城に撤退した。
また、この前後に原田了栄は志摩郡内の砦(とりで)も攻め立てたので、
これに降った小金丸・由比・泊・馬場・古庄の諸氏は、
いよいよ城館を開け渡して浪人になるか、原田氏傘下に属するかの選択を迫られた。
小金丸氏のみ本領を安堵されているが、これより志摩郡の在地諸勢力も
原田氏の支配下に統合されたとみられる。




鹿家合戦 原田氏、波多氏の怡土郡侵攻を防戦する

養子となって原田家を嗣いだ原田信種(了栄の孫)は、了栄の老衰もあって、
原田家の諸事については、実父である肥前国鬼ヶ城主・草野鎮永に相談することが多かった。
ところが、これを知った岸岳城主・波多信時は草野・原田の両家を軽んじて、
上松浦の境界にある山川を押領しようと働いたので、両勢は怡土郡鹿家において対峙することになった。
天正12(1584)年3月、大村氏の加勢を得た波多勢3,000人は浜崎より鹿家に侵攻し、
原田領の民家を焼き払って領民男女200人を殺害。
対する原田信種は、波多江・笠・石井・上原・小金丸・有田・富田・鬼木・岩隈ら3,000の軍勢をもって、
鹿家に攻め上り二方から敵勢を挟み討ちして、さらには深江・吉井勢の追い討ちを加え、
波多勢を唐津方面へ敗走させて決着した。




島津勢、北部九州侵攻を強める

大友氏が衰勢に向かうや、筑後国を抑えるなど急速に勢力範囲を伸ばした龍造寺隆信が、
天正12(1584)年3月に肥前国有馬で島津勢に敗れて討ち死したため、九州の勢力図は大きく変動する。
大友氏の命により戸次道雪が筑後国を攻めて同国旧領こそ奪回したものの、
肥後国以南の国人衆の多くは島津氏に従うようになっており、
筑前国においても秋月種実が島津氏に靡いたのを機に、原田了栄・信種父子も薩摩方に与した。
翌年(1586年)6月、北上侵攻を本格化した島津勢は、島津義弘を先鋒に伊集院氏・野村氏の兵を添えて、
肥前国勝尾城・筑紫広門を攻めて降伏させると、続いて筑前国岩屋城・高橋紹運を攻囲。
歴史に残る攻城激戦の末、高橋紹運以下を自害させたが、
この時、原田信種は家臣の富田国茂らを島津方に派遣している。




秀吉の九州平定始動と高祖落城

島津勢の侵攻圧力は、本拠地である豊後国まで迫り、大友氏の滅亡はもはや時間の問題となった。
この窮地を打開したい大友宗麟は、中央で全国統一を進める豊臣秀吉に大阪城で謁見し、
自らが秀吉に忠誠を尽くすことを盟約した上で、対島津戦における軍事的支援を求めた。
これに応じた秀吉は、天正14(1586)年8月、黒田孝高・安国寺宮木入道を先発に、
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に命じて山陽道の兵を北九州へ発向させた。
この大規模な軍勢接近の報を受けた原田一族以下の家臣らは、ただちに当主・原田信種に降参を勧めたという。
しかし、信種はこれを聞き入れず、城下の大門河原に兵を結集させて、城の周囲に以下のように守備を命じた。

 ●長垂山・・・富田・上原・大原・波多江・矢野・近藤ら500人
 ●油 坂・・・笠・中嶋・有田・長野・吉富・朱雀・下郡・柴田ら500人
 ●日向峠・・・鬼木・泊・萩原・三嶋・石井・井上・中宮ら600人

さらに、城中には籠城戦に備えて、小金丸・牧園・波多江・鬼木・窪・豊田・西原・深江・吉井・
中園・松隈・田尻・行弘・国枝・谷ら2,000人を控えさせた。
この布陣を前に小早川隆景は、高祖城に改めて使者を送って降参を勧告したが、
なおも信種は拒否したため、大軍を高祖城に進めた。
そして、小早川軍先鋒は福田左近・児玉隼人に加えて
黒田家臣の久野四兵衛・衣笠右兵衛らが、油坂の原田勢を突破。
長垂山に構える富田・大原・上原らが小早川勢を挟み討ちにするが、
この隙を突いて長垂山を越えて高祖城大手に攻め込まれたため、
高祖勢はもはや籠城戦を免れないという状況となる。
この時、城内の主将・原田信種が本丸の上より東方を見渡したところ、
博多の西より3〜4里の間に、おびただしい数の旗指物、馬物具のきらめく行軍を目の当たりにした。
これに肝をつぶした信種は、城内評議にも及ばず降伏を表明。城攻めは中止された。
降人となった原田信種は開城し、鬼木・波多江・木原・山崎・笠・有田・平山・中園・上原ら
家臣とともに高祖山を下りた。高祖城はその後取り潰しとなった。




豊臣秀吉の九州平定と原田信種のその後

天正15(1587)年3月、九州平定を目指して豊臣秀吉自ら小倉に着陣した。
ここに総勢20万を動員し、南北2軍に分けて北部九州各国を経て薩摩国までを攻め下り、
最後は島津義久も降伏させたので、秀吉の下に九州全域は平定された。
その後、高良山で秀吉と拝謁した原田信種は、その所領の程を問われた際に、
怡土・志摩・早良3郡に加えて那珂の半郡と肥前国草野郷などを領していながら過少に申告した。
これが秀吉の怒りを買い、「小身にては家を立てること無用」と旧領を没収されている。
その後、肥後国の佐々成政の与力を経て、同国の加藤清正の与力となった原田信種は、
文禄元(1592)年に秀吉の朝鮮出兵が始まると、加藤清正に従軍して海を渡った。
これに随行した糸島地域の人々も多数で、原田一族をはじめ池園・石井・中園・大原・鳥越・鬼木・
深江・上原・富田・友枝・行弘・萩原・西・深江など700人あまりを数えるという。
慶長3(1598)年9月、原田信種は同地にて戦死した。




深江神社と秀頼誕生の報

建久8(1197)年、原田家の守護神として、
太宰府より勧請された竈門神社を起こりとする深江神社は、
朝鮮出兵のため、秀吉が肥前国名護屋に在陣中参詣したという伝承が残る。
奇しくもその日、秀頼の誕生の報を受けたという。
57歳にして初めて自身の血を分けた男子に恵まれた秀吉は、手をたたいて喜んで、
深江神社は秀頼の産神として、筑前国領主に任命した小早川隆景に命じて社殿を再建させている。
境内に入って2つ目の扁額のない鳥居も、小早川隆景が立てたものである。




fukaejinja_09.JPG
小早川隆景が立てたという、境内入って2つ目の鳥居は額がない

fukaejinja_07.JPG
境内には、秀吉がお茶会を開催したという跡地も残る

taikomichi_01.JPG
taikomichi_02.JPG
taikomichi_03.JPG
二丈松国には秀吉が名護屋に向かう途中に通ったとされる道があるが・・・




posted by 由比 貴資 at 23:12| Comment(0) | 糸島近世史
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: