◯ 近世糸島のできごと ー臼杵氏子孫の来訪と原田家の法事ー
今回は、近世糸島のできごととして、「臼杵氏子孫の来訪と原田家の法事」をテーマにお送りします。
このブログでは、糸島の歴史や伝説について、できるだけ短くわかりやすくして発信しています。
戦国時代末期の糸島地方では、高祖勢・原田氏と志摩勢・臼杵氏で勢力を二分し、両氏は交戦を繰り返しました。
秀吉の九州平定前後には、両氏は怡土志摩を離れることになります。
徳川時代になって、それぞれ遠く他国で藩士として仕官するようになった両氏の子孫は、やはり糸島の地を忘れていなかったようです。
本記事は、臼杵氏と原田氏、その子孫の郷土来訪の記録です。
ここからは下記の内容で進めていきましょう。
・ 臼杵大学、郷土にきたる
・ 臼杵進士兵衛鎮氏とその墓について
・ 原田氏のその後
・ 原田家の法事
(柑子岳/妙泉庵跡の臼杵進士兵衛墓石/高祖山/金龍寺 2020年1月撮影)
臼杵大学、郷土にきたる
安政3(1856)年2月23日のことである。
周船寺村の酒造家加勢儀屋に、四人のお供を連れた品格漂う武士の一行が訪れたので、主人は無礼のないよう座敷に通した。
「先ほど訪ねた今宿の家の主人から、貴家は歴史に詳しいとお伺いした。
志摩郡の城跡についてご存知のこととあれば、是非ご教示願いたい」
主人が即答する。
「それは草場城(柑子岳城)のことでしょう」
「城主の名は何と申す?」
「臼杵なにがしかと聞いております」
「城主は臼杵新介である。早くわかってよかった」
主従五人は、手を叩いて大喜びである。
不思議に思った主人が、どうして草場城をお尋ねかと問うたところ。
「臼杵新介はわが祖先である。
天正の初め(1573年-)原田了栄に攻められて、元岡村で討ち死にされた。
そのため、一家は離散したが、家老奈良崎小助が主君の遺児であった為丸を守って、筑後国高良山麓の知人を頼って隠れ住んでいた。
大阪の乱が収束して、立花宗茂公が筑後柳河12万石の領主となった。
為丸が成長し、臼杵貞之進と名乗っておったが、長い不遇の浪人暮らしを知った領主より、名家の子孫であると召し出された。
次第に立身して、今は1,000石の藩重役となっておる。
この度、先祖ゆかりの地を訪れたいと、しばらく暇をもらって来ておる」
主人は五人に食事を勧めたが、一刻も早く草場城を見たいという。
それならばと、元岡や今津大原周辺の旧臣の家とその道順を教えると、一行は礼を言い、勇んで加勢儀屋を出て行った。
柳河藩家臣団をまとめた『柳河藩立花家分限帳』(1864年)には、臼杵姓の藩士が存在するが、この人物のことだろうか。
ちなみに、臼杵新介は当地では戦死しておらず、天正6(1578)年に日向国耳川の大戦で島津勢に討たれている。
志摩郡で討死したのは、新介の後任で柑子岳城(草場城)に入った臼杵進士兵衛である。
また、新介には嫡男がなかったとされていることからも、柳河藩士・臼杵氏の祖は進士兵衛ということになるが、臼杵氏の場合、明確な系譜が存在しないので判然としない。
(由比章祐研究『周船寺村・富永日記』)
正月早々、柑子岳山頂からの博多湾を望む
臼杵進士兵衛鎮氏とその墓について
臼杵進士兵衛鎮氏(うすき ししべえ しげうじ)が志摩郡に入部したのは、元亀2(1571)年冬のことである。
大友領志摩郡の政所職を任された進士兵衛は、前任の臼杵新介鎮続(うすき しんすけ しげつぐ)と同様に、郡代また城代を肩書きに、在地武士(志摩郡衆)を統率し、大友方の軍事力強化をはかった。
怡土郡高祖城の原田氏は、大友氏に敵対の姿勢を鮮明にすることが多く、その度に南北に近接する志摩郡柑子岳城の臼杵氏と激しい武力衝突を繰り返した。
両勢力の勝敗は、元亀3(1572)年正月に再び対陣した池田川原で決定的となり、敗れた主将・進士兵衛は潤の平等寺内で郎等28人とともに自刃。
その首級は、原田家臣の西彌八郎によって討ち取られたという。
この敗軍の将を指して、『筑前国続風土記』は「此人驕慢にして欲心深く、恥辱を顧りみず、処分に私曲多かりしかば、当郡城主給人等多くはうとみて其下知を憚らず」と酷評である。
しかし、現在まで旧志摩郡内には、潤の平等寺跡、柑子岳麓の妙泉庵跡、元岡の西泉寺など、複数の場所でその供養墓が丁重に祀られてある。
(『新修志摩町史』、『怡土志摩地理全誌』、『福岡県地理全誌』)
柑子岳登り口までの途上の集落内にも、進士兵衛を供養する暮石の一つがある
原田氏のその後
天正6(1578)年、大友氏が日向国における高城・耳川で島津勢に大敗し、大友重臣の臼杵一族も嫡流を滅ぼすことになった。
その一方で、高祖城・原田氏は志摩郡掌握を実現し、糸島全域に威勢をふるうようになる。
しかしこれも束の間で、太閤秀吉の九州平定を前に、所領没収の憂き目にあった原田氏は、佐々成政の与力として肥後に転封となり、その後は加藤清正に従い参戦した朝鮮出兵で戦死。
その子孫は、唐津藩主・寺沢広高の与力を経て、慶安4(1651)年より保科正之に遇されて、遠く会津藩士(福島県西部)として仕えるようになった。
臼杵氏の子孫が先祖ゆかりの地・志摩郡を訪れた江戸時代後期には、原田氏の後裔もまた、縁の深い怡土郡の地を訪れていたようである。
原田氏本城のあった高祖山
原田家の法事
文政3(1820)年4月、会津藩に仕官する原田五郎右衛門の執事・小池善兵衛から、高祖原田家の旧家臣の子孫へ、村ごと数人宛で書簡が届けられた。
それには、長い無沙汰の詫びと主人原田五郎右衛門が怡土志摩の地をたいそう懐かしがっていること、宛名は金龍寺・海禅和尚の通知に従っているが、万一誤りがある場合には知らせてほしいとの旨が綴られていた。
その後、旧臣の面々へ案内が出されて、金龍寺で原田家の法事が行われることになったのは、文政5(1822)年2月のことで、これに合わせて遠路はるばる会津から原田五郎右衛門が来郡した。
当日は糸島地域はもとより、福岡藩士や福博の商家の人々まで集まって寺参りをしたので、高祖近傍は時ならぬにぎわいになったという。
天保5(1834)年には、同じく金龍寺にて、高祖原田家の先祖大蔵春実の850回忌の法要が執り行われた。
会津からは原田大内蔵兄弟が訪れて、旧臣の子孫が多数集まり盛会に終わったと記録されている。
(由比章祐研究『高田村・是松日記』)
高祖山麓の金龍寺




貴重な情報ありがとうございます。
三河原田も江戸から戻り、江戸末期まで?種
お問い合わせいただいた資料館ですが、糸島には2箇所あります。
伊都国歴史博物館
https://www.jalan.net/kankou/spt_40222cc3290033139/
志摩歴史資料館
https://www.city.itoshima.lg.jp/m044/010/050/040/20190911151658.html
伊都国歴史博物館は、高祖城跡から比較的近い場所にあります。
種を名乗る方は、糸島在住の原田氏一族(波多江さんや小金丸さんなども)に少なからずいらっしゃると人づてには聞いていますが、私の世代(昭和終わり)では知りません。
>原田芳行さん
>
>三河武士となった原田種一族の末裔勘兵衛でございます。糸島と繋がりをもう少し知りたいと考えております。資料館の学芸員を訪ねてようと思いますが、何処かあるのでしょうか?
>三河原田も江戸から戻り、江戸末期まで?種
Facebookの非公開ページにて「大蔵朝臣原田一族」を開設しています。
米国から糸島・佐賀・会津各地の原田家縁者による情報交換を行っています。
よろしければご参加ください。
https://www.facebook.com/groups/379890598738387