◯ 近世糸島の感染症 ー痘瘡を中心にー
新型コロナウイルス感染が国内で初めて確認されてから一年。
いまだ終息の兆しは見えませんが、このような感染症の歴史は古くからありました。
そこで今回は、近世糸島の感染症をテーマに探ってみました。
このブログでは、福岡県の最西部・糸島地方の歴史や伝説をやや掘り下げつつ、できるだけ短くして発信しています。
昨年の秋は、わが家も、3才になった娘の七五三のお祝いをしました。
こういった行事はやっておくべきことだから。
これ以外にわが家が七五三をした理由はないのですが、お参りした神社でいただいた千歳飴が示すように、本来は子どもの「長寿」を祈願する儀式だったといいます。
というのも、昔は、親や周囲の大人たちが「子どもに長生きしてほしい」と強く願わざるをえないほど、乳幼児の死亡率が高かったからです。
その主な原因の一つは、疫病、つまり広範囲に被害を及ぼす重大な感染症の流行が挙げられます。
当時は、医療の知識や技術が十分ではなかったことに加えて、根本的な衛生環境の問題がありました。
さらに異常気象による急激な気温の落ち込みや栄養失調をもたらす飢饉などの時下においては、流行病の爆発的な感染拡大が起きていたのです。
風邪(インフルエンザ)、麻疹(はしか)、赤痢、痘瘡(天然痘)、結核、腸チフス、梅毒、コレラ・・・
今から300年前の江戸時代には、これらの疫病が人々を苦しめました。
郷土においては、麻疹、赤痢、痘瘡(とうそう)の流行が複数で記録されており、現在では馴染みのない痘瘡は、多くの子どもの命を奪うおそろしい存在でした。
この予防対策が大きく進展したのは、江戸時代も末期に入ってからです。
郷土の数限られた医師たちの尽力により、その後の重症患者を大きく減少させたことで、たくさんの幼い命を救ったといいます。
本記事では、この痘瘡を話題の中心に据えながら、郷土と感染症について簡単にまとめました。
ここからは、次の項目で話を進めていきましょう。
・ 痘瘡という感染症
・ 安全な予防接種「牛痘接種法」の伝来と郷土
・ 吉井村を襲った疫病
・ コレラの大流行と郷土の疫病
・ 疫病が連続した文久2(1862)年の郷土
(二丈吉井の風景/白山神社(下宮) 2021年1月撮影)
痘瘡という感染症
痘瘡(とうそう)は、一般的に「天然痘」ともいわれ、中央アジアを起源に太古より存在した感染症である。
わが国と痘瘡の歴史は、有史以来では仏教伝来のころで、当時交流の深かった朝鮮半島や中国から侵入してきたといわれている。
奈良時代前半である天平年間(729-749年)には、国内で二度にわたって痘瘡が大流行した。
身分を問わず大規模な死者を出し、時の政権を握った藤原不比等の4人の息子(藤原四子)も、痘瘡をわずらったことが原因で相次いで死んだという。
令和の現在、痘瘡はまったく聞かれない病気である。
それは、今から40年前のアフリカの患者を最後に、全世界から完全に根絶されたからだ。
新型コロナウイルス同様、飛沫や接触による強い感染力を持っていたという痘瘡。
ひとたび感染すると、7日以上の潜伏期間を経て、高熱が3日ほど続くという。
その間、顔から出てきた発疹が全身に広がりながら、やがて水疱(水ぶくれ)に変化し、血疱になって青みを帯びる。
それが化膿して瘡蓋(かさぶた)になると、この病の最終段階である。
ここまでだいたい14日ほどで、この間に死に至る者も少なくなく、致死率はおおよそ20%から50%だったという。
半数以上が生き延びることができたとはいえ、痘瘡を患った者には、回復後も深刻な後遺症が残った。
それは、顔面に残った発疹の跡「痘痕(あばた)」で、生まれもつかぬ容貌になった。
痘瘡は、その後の一生にまで大きな影響を及ぼす、おそろしい病気だったのである。
8代将軍・徳川吉宗の時代である享保年間(1716-1736年)の糸島地方では、数度、痘瘡をはじめとする疫病が猛威をふるい、数多の幼い子どもが犠牲になった。
特に、享保3(1718)年と享保13(1728)年は、前後の年と比較しても子どもの死者数が突出しており、痘瘡が死因となった例も多かったようである。
(参考:『病が語る日本史』酒井シヅ、『志摩町誌 平成版』 他)
安全な予防接種「牛痘接種法」の伝来と郷土
痘瘡は、一度かかれば二度とかからない。
このことは昔から知られており、子どもには意図的に軽度の痘瘡にかからせることで、痘瘡に対する免疫を獲得しようという考えがあった。
痘瘡の予防接種「種痘(しゅとう)」は、痘瘡患者の発疹(水ぶくれ)から膿(うみ)を抽出し、それをワクチンとして健康な子どもに接種するものである。
また、痘瘡患者の瘡蓋(かさぶた)を粉末にして、鼻に吹き込む方法もあった。
これらは「人痘接種法」と呼ばれるもので、確実な効果はあったものの、一方で看過できない問題を持ち合わせていた。
それは、わずかな確率ながら、接種した子どもの中には発症後に重症化して、最悪の場合は死亡しまう事例があったことだ。
これに一石を投じたのが、英国人医師のエドワード・ジェンナーである。
彼は、次のような古くからある酪農の言い伝えに着目した。
牛の乳搾りに従事する女性は、牛痘をわずらって手や腕に水ぶくれができるが、これに一度感染すると二度はかからない。
しかも、痘瘡にもかからないらしい。
人には軽症しか起こさない牛痘にかかれば、痘瘡にも有効な免疫を得ることができるのではないか。
これを痘瘡予防に応用できないかと考えたジェンナーは、18年に及ぶ研究実験の末、より安全な種痘法となる「牛痘接種法」を開発した。
わが国でこれを最初に採り入れたのは、佐賀藩(肥前藩)である。
当時の佐賀藩主・鍋島直正は、自身も幼少のころ痘瘡にかかった経験を持ち、危険の少ない種痘の普及に積極的だったという。
嘉永元(1848)年、藩命を受けた佐賀藩医の楢林宗建(ならばやし そうけん)は、出島のオランダ商館医であったオットー・モーニッケに牛痘苗(ワクチン)の輸入を依頼した。
ところがこれは、長い航海にあってワクチンが効力を失っていたため、失敗に終わる。
そこで今度は、牛痘患者の乾燥した瘡蓋(かさぶた)を輸入し、これを自らの子息など複数の幼児に接種したところ、一定の効果が認められた。
嘉永2(1849)年7月のことである。
これを受けて、各藩はこぞって肥前国に自藩の医師を出向させている。
もちろん、このワクチンと技術を得させて、自領内に「牛痘接種法」を導入するためであった。
福岡藩では、まず長崎に留学中であった藩医の河野禎造に調査をさせたうえで、藩医の江藤貫山と安田仲元を同地に派遣し、この種痘法の習得と研究を命じた。
翌年には、志摩郡女原村の医師・牧野李山が怡土・志摩郡内の種痘医に任命されている。
中津藩は、藩医の辛島正庵を筆頭に10名の医師を派遣し、中津領内で最初の種痘を実施している。
怡土郡西部の中津領では、深江地区の医師・前田尭民が中津城下に招集されて、新種痘法のワクチンと技術を同地に持ち帰った。
同じく中津領の怡土郡川付村の医師・江川玄宏は、自らの意向で長崎に赴き、これを学んだ後、長糸地区の安全な種痘普及に尽力することになる。
嘉永6(1853)年ごろまでには、郡内の幼児すべてに種痘を受けさせることが義務化された。
当時の種痘は、すでに種痘を受けた子から膿(ワクチン液)を採取し次の子に接種していく、「植え継ぎ」や「膿戻し」と呼ばれた施術方式であった。
たとえば、この年の7月には怡土郡大門村、続けて周船寺村でも実施されており、大門村の子の膿を周船寺村の子に接種したと思われる。
種痘を受けるため、村内の幼児が、母親や祖母に背負われ、また手を引かれて次々とやってくる。
種痘の会場は、さながらお宮の祭礼のような人の集まりだったといい、後には出店が並ぶ地域もあったという。
危険の少ない種痘とはいえ、接種後に高熱を発する子もあり、家族が夜伽(よとぎ)をし、時に疱瘡払いの祈祷を山伏に依頼することもあった。
まだ牛痘ワクチンを使った種痘が珍しかったころには、これを接種すると牛のようにモーモー泣く子になるというデマも流れたが、以降の痘瘡流行は急激に抑制されていったのである。
(参考:『病が語る日本史』酒井シヅ、由比章祐研究『周船寺 富永日記』 他)
吉井村を襲った疫病
先の種痘が糸島地方に入るより数年前の弘化2(1845)年には、次のような疫病の記録がある。
この年の6月、対馬領の怡土郡吉井村(現在の二丈吉井)で発生した疫病は、疫痢(赤痢)であろうか、短期間に死者が続出したという。
当時の吉井村は、茶臼隈・胡麻田・久安寺・原・中村・竹戸・下村の集落が現在の福吉駅辺りから南の浮岳麓まで伸びる大きな村であった。
この疫病は、上組(村南の方)から最初の感染者が出ると、またたく間に村全体に広がったらしい。
下村で酒造を営んでいた奈良崎家では、7月に下男の死亡にはじまり、8月には子息16才、その姉19才が続けざまに亡くなった。
さらに同居していた娘18才も命を落とし、使用人数名も病床にあるという悲惨な状況であった。
11月になっても感染拡大は収まらず、村社である白山神社では、志摩郡の神官が総出して疫病退散の大神楽を行ったうえで、村内全戸をまわってお祓いをしたという。
それでも、日に日に増え続ける感染者に対して、村医者の吉井医師だけでは、とうてい手が回らない。
深江や浜崎から医師の応援を依頼して患者の手当にあたってもらっていたものの、あまりに長引くため、応援の医師たちも帰村の申し出である。
これを引き止めるのに、吉井村の人々は必死だったという。
秋の稲刈り時には、一家の働き手が総倒れの家も少なくなかったため、村内の元気な者が可能な限り力を貸しあった。
それでも村内の稲刈りをすべて終えたとき、12月も半ばを過ぎていた。
この疫病騒動は翌年まで続き、2月初午(はつうま)の白山神社の祭礼には、疫病退散を願う参詣人であふれて、例年に倍する賑わいになったようである。
(参考:由比章祐研究『吉井 奈良崎文書』 他)
コレラの大流行と郷土の疫病
近世を代表する致死率の高い感染症の一つがコレラで、世界的な大流行は三度を数える。
一度目は、シーボルト来日の前年である文政5(1822)年。
日本は鎖国下にあったにもかかわらず、下関から侵入したコレラは、萩から広島・岡山、さらに兵庫・大阪へと一気に広がったという。
その症状は、とつぜんの嘔吐と下痢で発病したかと思うと、激しい腹痛に襲われて2、3日以内には絶命することから、「三日コロリ」と呼ばれたほどである。
二度目の世界流行は、1829年から1852年の23年間に、ほとんど世界全土に広まった。
鎖国中ということもあって、日本は無償で済んだが、安政5(1858)年に欧州諸国の圧力に屈して開国。
上海から長崎港へ入った米国船ミシシッピ号の船員が発病したことで、コレラはまたたく間に長崎中心部に広がり、筑後を経て筑前から中国・関西地方へ、さらには江戸にまで蔓延した。
この危機的状況に、福岡藩は、主要な神社に悪病退散の祈祷を命じるとともに、コレラの予防薬製造の材料を調達するため、薬種商代表を大阪に急行させている。
領民すべてに予防薬を一粒配給するため、4万両もの資金が投じられたものの、7月の猛暑がコレラの流行に拍車をかけた。
福博にも感染者が増加をはじめたので、元寇以来578年ぶりに、大宰府宝満山の神輿が福岡万町浜までお下りして、二夜三日の大祈祷である。
それでも福博一帯では、葬送の甕棺が不足して困るほど死者が出て、能古島や姪浜周辺も被害が大きかった。
不思議にもこの時、郷土にはコレラは入ってきていない。
しかし同年4月は、怡土郡東部で疫痢(赤痢)の感染者が急増した。
井原村にはじまって、井田村、高祖村、飯氏村、今宿村、今出村まで広がって、多くの乳幼児が亡くなったという。
周船寺村では、4月以降は3才から10才までの子どもが発病し、そのうち男子4名と女子3名がこの世を去っている。
(参考:『病が語る日本史』酒井シヅ、由比章祐研究『周船寺 富永文書』 他)
疫病が連続した文久2(1862)年の郷土
文久2(1862)年は、全国各地で26年ぶりに麻疹(はしか)が広範囲に発生したという。
麻疹は、発熱後に咳、鼻水、くしゃみ、目の充血と目やにが2日以上続き、高熱が出て、耳の後ろからはじまった発疹が全身に広がる。
糸島地域では、冬から春にかけて、若い人や妊婦、乳幼児を中心に重症患者が続出し、深江地区の医師・前田堯民の記録だけでも640人を治療したことがわかる。
暖かくなってこれが収束するや、7月には長崎を侵入地にコレラが全国的に広がって、福博でも数百人規模の死亡者が出た。
福岡藩は、領内の大宰府や香椎の大宮をはじめ、怡土・志摩郡内の雷神社や高祖神社、馬場神社(六所神社)などにも悪病退散の祈祷を命じている。
涼しくなった8月末ごろより患者は減少に転じ、9月半ばにはぱたりと出なくなったという。
ところが、寒い冬になると、今度は痘瘡の流行である。
このころには種痘が広く浸透したとみえて、糸島地域でもあちらこちらで幼い感染者が出たものの、そのほとんどは軽症で済んだという。
嘉永年間(1848-1854年)に「牛痘接種法」が伝来して以来、福岡藩にしても中津藩にしても、すぐにその効果が認められるや、いち早く自領内の普及に動いた。
時の福岡藩主・黒田長溥(くろだ ながひろ)は、藩重臣の反対を押し切って種痘(「牛痘接種法」)を採用し、筑前国自領内で幼児の強制接種を決定したという。
そして、称えられるべきは、郷土の種痘医はもとより、実際に子どもたちの種痘にあたった在村の医師たちの献身であろう。
その効果は、それから10年経ったこの年だけみても、確かな実を結んでいたのである。
(参考:『筑前西郡史2』、『怡土志摩地理全誌』 他)
当時、疫病退散が再三にわたって加持祈祷された吉井白山宮の、こちらは中村にある下宮
宜しくお願いいたします。
はじめまして。
貴院のURL、確認させていただきました。
お役にたてるところございましたら、使っていただいて結構です。
こちらこそ、ご丁寧にありがとうございます。
ご連絡ありがとうございました。