◯ 冨永延蔵、フクロウを飼う
冨永日記は、江戸時代後期につづられた冨永延蔵(とみなが えんぞう)による日記である。
怡土郡周船寺村の兼業農家の次男であった延蔵は、実名を「冨永盈種(とみなが みちたね)」という。
農業のかたわらで冨永家が営んでいたのは酒造と質屋で、その屋号を「加勢儀屋(かせぎや)」とし、村の東入り口にあった。
当時の周船寺村は、宿場として栄えた「今宿」につらなる唐津街道沿いにあって、なかば宿場町的な商家が多かった。
そのようななか、加勢儀屋の家長である延蔵の兄「只七」(実名は冨永信種)は、なにかと病弱。
このため、家業は延蔵の存在なくして成立しなかったようである。
体の丈夫な延蔵は、農業や家業の忙しい合間に、天気のことから身辺雑記、酒場客のうわさ話まで毎日欠かすことなく日記に書きとどめていた。
このうち後世に残ったものは、嘉永3(1850)年、嘉永6(1853)年、嘉永7(1854)年、安政3(1856)年、慶応2-3(1866-67)年合冊の約6ヵ年分である。 (一部欠損あり)
筆者延蔵は、安政3(1856)年分の前書きに次のように記している。
夫此予が日記ハ
日々の天気其外・家内の笑談珍事・世間の奇談妙説等の荒増を書記して
後代に残すのミ 元来拙き身を以て 賢君の志に習ふハ
頗(すこぶる)身を忘れ 恥の上塗に等しといへ共
十二才の若冠より記し来れる日記 今更絶さんも無下に本意なしと
人の誹謗も打忘れ 日々に相記して自楽の為 且ハ後営にもなる事もヤと
彼是を按じつつ 戯作へ文を顕すのミ
(後略)
今から169年前の安政3(1856)年は、黒船来航の年である。
同年7月、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航して開国を迫ったことで、激動の幕末時代がはじまった。
この直前の初夏(4月)、農家兼商家の一青年である筆者の周囲ではどんな出来事があったのか。
同日記のなかから一部を抜粋して紹介したい。
・ 冨永日記 <安政三年初夏(4月)>
・ 今回のまとめのようなもの
(周船寺駅 他 2025年4月撮影)
冨永日記 <安政三年初夏(4月)>
朔日 曇り天気
今朝、荒衆子(下男)の源七・新作には、酒倉庫等々の屋根の草取りをさせる。
それに小便囲い瓶の上の竹瓦のふき替えなども任せた。
〆
兄の信種は頭痛がひどく、また発熱もあって床に伏せる。
強い痛みで苦しむ様子のため、家中で心配する。
申の刻(16時ごろ)には牧野李山様(医師)の訪問診療を受けるに、格別の大病とは申されず、「疝癪(せんしゃく)」と告げられる。
※疝癪は、胸・腹・腰などが急にさしこんで痛む病気の総称
兄がこのような状態のため、私も農仕事に出ることはできない。
くわえて、月初のことである。
質の置き受けの繁忙に、私もてんやわんやであった。
流行の眼病が再発した親父の方は、いまだ平癒せず、これまた困った次第である。
三日 大に天気よろしく
終日、神崎新蔵の元から仕入れた60目巻の素麺は、1駄620把であった。
〆
今日は、若年・中年そのほか10人ばかりが柱島・机島等の磯見を楽しんできたようだ。
私もこの誘いを受けていたものの、兄は病気だし、親父も眼病を悪くしている。
店の仕事をする者もいないので、私は辛抱して残りとどまる。
すこぶる残念の次第なり。
〆
今夕、当村(周船寺村)役場に乞食の者が塵戸(戸板)に乗って飯氏村より送られてきた。
当郡(怡土郡)三坂村から村継(むらつぎ)で送り出されていた者で、筑後国久留米小頭町三丁目の美濃屋勝平、という。
※村継は、継送りともいい、急病の旅人を村から村に継ぎわたして国元まで搬送すること
これを受け取って次の今宿村に手配をかけたのが、亥の下刻、子の刻(午前0時)になろうかという頃合いである。
けれども、この病人が亡くなってしまい、道の途中で引き返してきた。
私は寝入りにして夢心地であったところ、この度の指示・願書等を求められることになる。
緊急のことのため、庄屋・組頭・頭取・年番が集まり、私も加わって注進状・口上書を書き、私が帰宅したのは寅の刻(午前4時)を回っていた。
村役人は総勢で大庄屋の元に出役し、その後に役所出等もあって大繁多である。
また、遺体の番人も置かねばならず、村中もたいへんな騒動になった。
私の心配は他のことに比較しても10倍である。
乞食ひとりのこととはいえ、人命に関わることは一大事になる。
この件について記すべきことは山のごとしである。
しかし、親父は眼病、兄は疝癪で伏せて平癒していない時分、公事ゆえに私が出向かないわけにもいかない。
かといって、私一身をもって八方に心遣いはなかなかできるものではない。
このような繁多のさなかにあって委細を記すこともかなわず、大略のみを書き記した次第である。
八日 朝雨 巳の下刻より天気よろしく成
今朝より私の右眼が悪く難渋するところ、潤の三木峻庵様(医師)に来診してもらった。
流行眼といわれる。
重症ではないといわれ、終日うちふせて薬用処置をした。
母も流行眼で辛そうである。
そのほか親父や岩蔵らも眼病を患っており、さても困り入った次第である。
九日 天気よろしく
今日、六尺(下男)の六七と荒衆子の新作・源七の3人を井原へ遣わした。
文人殿元家に囲み置いていた合竹を中干しさせるためである。
その帰りに又吉殿に世話してもらっている枯柱を回収してきてもらう。
〆
今日、私の眼病もおおかた快気したので喜ぶ。
もっとも全快には至ってないので十分に用心したい。
最近は家中で病人が多く、薬煎じにあれこれ騒々しくしている。
休五郎(父)
先の流行目を患い、だいたい快復していたところ、水帳調子して再発
今度は上眼となり、潤の三木峻庵(医師)の薬用に頼る
只 七(兄)
傷寒の症状にて当月朔日(4月1日)より病つき
はなはだ大ごとにしていたものの、薬用処置のおかげで早くも快復した
しかし、全快とはならず今も起きたり伏せたりである
女原(みょうばる)の牧野氏(医師)の薬用を受けている
延 蔵(私)
昨日8日の朝より流行目を患う
今朝に至っては大いに回復するも、用心のため潤(三木峻庵)の薬用はつづける
老 母
常々眼気悪くこの度の流行目につき、はなはだ難渋していた
もっとも日に日に快方に向かっている
これまた潤(三木峻庵)の薬用に頼っている
おいわ
虫塩梅にてぜんしやう激しく、くわえて目も悪くホヲベンタ腫れる
これまた潤(三木峻庵)の薬用に頼っている
もっとも次第に快方に向かっているので安心ではある
〆
以上、5人の病人にてさてもさても困り入る。
しかし、全快にいたらんこと目前であるので、そこまで悲嘆しているわけではない。
十四日 曇天
今朝未明より起床し、私と糀屋甚吉両人で連れ立って肥前国上松浦郡新公領七山内滝川村に向かった。
同村内に鎮座する滝観世音に、心願成就のお礼参りが目的である。
深江より淀川村に至り、真名子峠を登り、浮岳の東南をとおると、山道の険阻㟴々の難所なることがたし。
滝川より川沿いを下り、浜崎に出て諏訪大明神に参詣し、今年の蛇難退除の誓願をこめる。
そこから2里の松原を通過して二軒茶屋に着くと、偶然にも休憩中の今宿上町利七に遭った。
彼も唐津の日限り地蔵菩薩に参詣するというので、これ幸いと、ここからは3人連れで水島渡しをわたり、唐津城下に至る。
日が西山に沈んだので、明朝の参詣しようと外町大石町大和屋三ヱ門方に一宿。
今日の行程は山道11里なれども、知った道に比べれば14-15里にも感じるほどであった。
言語大草臥(大くたびれ)いたしはべりぬ。
十五日 朝曇天 巳の下刻より大いに天気よろしく
今朝、私・甚吉・今宿利七の3人は、名物の与市鬢付などを買い求め、日限り地蔵尊に参詣した。
城下を出発したのは、早四ツ時(午前10時)なり。
昨日のくたびれのため、今朝はずいぶん寝てしまい、支度がこのように遅くなってしまった次第である。
これより水島渡しをわたって2里の松原を過ぎ、浜崎にてまた諏訪大明神に参詣して御砂を受ける。
それから渕上村を経由し、鹿家・吉井・大入・三並(佐波)・深江・田中・松末・浜久保(浜窪)・真木(牧)・赤坂・筒井原・前原・閏(潤)・池田川・高田等々を通行し、暮れに及んで周船寺に到着。
今日の行程はおおよそ9里半。
今日と昨日の行程にて、はなはだくたびれ申候。
廿日 朝曇天 時々しぐれ 未の下刻(午後3時)より雨降りくる
最近、飯氏村の岡伊八方に怪異あり。
姿形は見えずといえども、夜陰になると、家内に大きな石を投げ回るモノがあるという。
その石というのも、狐狸の手に合うような石ではなく、大石である。
それで村内の若者たちが毎夜詰め方をして、その正体を突き止めようと様子を窺っていたが、一向に姿をあらわさなかった。
いなかる変化(へんげ)のなせる技か、いかに大勢で番をしようとも、石だけは相変わらず投げこまれる。
しかし、その姿形は見えないのである。
いかにも奇異の現象であって、まるで宗像郡本木村の化け物のようであると話題になった。
まことに恐ろしいことである。
丗日 天気ようやくよろしく相成り候
火盗退除のため、愛宕大権現に信心すること、幼少より今に至るまで変わらない。
今春よりひと月越しに、私たち兄弟は交代で月参りをしている。
当月は兄が参詣する順番である。
ご祭日の24日に福岡行きにもかかわらず参っていなかったようで、今日で4月も終わりである。
兄は、巳の刻(午前10時)より支度をし、参詣に出ていった。
〆
一昨日、染井半七殿方より梟(ふくろう)の子をもらってきた。
昼夜これを眺めて楽しむに、至極愛らしいものにて、寵愛にならぶものなし。
いまだ子梟のことゆえ、食べ物も田螺(たにし)やミミズなどをもっぱら与えている。
至極ゆうゆうたる気取り(様子)でいる子梟を見ていると、かわいくてしかたない。
今回のまとめのようなもの
安政3(1856)年4月末、冨永家ではフクロウの子を家族に迎え入れた。
延蔵は、「昼夜是を見て楽むに、至極愛らしき物にて、寵愛双ぶ者なし」とつづり、その溺愛ぶりが伝わってくる。
一般的にフクロウは「空飛ぶネコ」といわれる。
それは、名前を呼んでも知らんぷりを決めこんだり、ペタペタなで回されるのを嫌がったりするフクロウの性格に由来するそうで、ペットとしてのフクロウはまさに「眺めて楽しむ動物」らしい。
猛禽類であるフクロウは、ネズミのほかヒヨコなどの雛鳥を常食とする。
延蔵は子フクロウに、タニシやミミズといった、身近で採取可能なエサを与えていた。
この子フクロウについて、翌月(5月)の日記にも書かれている。
残念ながら、わずか10日足らずで病死してしまったようである。
四日 天気よろしく
頃日染井より貰ひ来たりし梟、健かに成長し甚愛らしき故、
家内の寵愛及ぶ者なく、梟の洪福(幸福)成べし
七日 曇天 七ツ下りよりポチポチと雨降出し申候 北風也
昨六日夕、頃日秘蔵の梟、昨朝より病気付し故、
韮ハ勿論キナキナ丸等呑しめ薬用仕り候へ共、一円其験なく戌の刻に死去仕候、
誠ニ残り多き事共にて、鳥類とハ申ながら別れを惜まぬハなく、
家内暫時質素となりぬ
上記内容のほか、これまで拙ブログで紹介した冨永日記は下記のとおりである。
・幕末時代の公開処刑 ー近世の周船寺「冨永日記」よりー
・幕末時代のある商家の7月 ー近世の周船寺「冨永日記」よりー
・幕末時代のある商家の正月 ー近世の周船寺「冨永日記」よりー
・近世糸島のできごと ー安政3年の郷土ー
・近世糸島のできごと ー弘化2年の郷土ー
・近世糸島の感染症 ー痘瘡を中心にー
・近世糸島のできごと ー郷土と心温まる話ー
・近世糸島のできごと ー郷土と珍事ー
・近世糸島のできごと ー事件と藩領ー
・近世糸島のできごと ー事件と内済ー
・近世糸島のできごと ー臼杵氏子孫の来訪と原田家の法事ー
・近世糸島のできごと ー幕末の郷土と事件ー
・近世糸島のできごと ー昔の糸島の男女事情を垣間見るー
参考:『安政三年 冨永日記』由比章祐 解読(未刊本1984年)
「今宿亀井塾と加勢儀屋」由比章祐 著(『誌季 能古博物館だより 第22号』1994年)
『怡土志摩地理全誌1 怡土編』由比章祐 著(糸島新聞社1999年)
【幕末の周船寺冨永日記の最新記事】